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第八話 地獄の沙汰も

 朝日の眩しさを感じて、宍粟は目を覚ました。彼の朝は早いのだ。それは全て憧れのおはようのチューをするためである。

 目を覚ました彼の前には、可愛らしい顔立ちの少女が、無防備な寝顔を晒している。


(おおおおおお!? これは夢か!? 彼女が出来なかった俺へのご褒美ってやつか!?)


 昨夜の葛藤による睡眠不足と寝起きで冷静な思考が出来ていない彼は興奮の最中にあった。平時であっても抑えるのが難しいほど彼女は魅力的なのだから、寝ぼけている今は言わずもがなである。


 ベッドの上をもぞもぞと動いてアリスへと近づく。その薄桃色の唇は瑞々しく、白い頬はふっくらと子供らしい可愛らしさで満ちていた。宍粟は理性のタガが外れていった。思う存分抱きしめて、可愛がりたいと。


「ん……」


 アリスは小さな声を上げた。宍粟は急に冷静さを取り戻していった。そして小さくため息を吐いた。このままの生活をしていればいつか自分は取り返しのつかないことをしてしまうだろう、しかし彼女と離れるくらいであれば死を選ぶほどに魅了されてしまっているのも事実である、と堂々巡りの思考に陥るのであった。

 せめてこうして眺めている分には問題ないだろう、これだけでも十分すぎるほど幸せなのだから、と少女の寝顔を眺めた。アリスが目覚めたのは、それから少し経ってからだった。


「え? あ……シソウさん、おはよう、ございます」

「おはようアリスちゃん」

「その、ずっと見てたんですか?」

「さっき、寝言を言ってたからちょっとね」

「あぅ……」


 縮こまる彼女は心なしか赤くなっている。宍粟はそれに気が付くことは無く、うまく誤魔化せた、と安心していた。


 宍粟は起きると、かまどの傍の排水溝まで行ってうがいを始めた。歯ブラシは無いので、代わりに布で歯を磨く。それから塩水を口に含んで喉を濯いだ。

 正しいうがいは口中の汚れを落とすために口を濯ぎ、その後上を向いて喉を洗うというのを宍粟は律儀に守っている。そして朝の口腔内細菌の多さを知ってからは、念入りに歯を磨くようになっていた。長年の思考の末、寝起きのチューの前に一度起きて、綺麗な状態で再び布団に入るのがベストだという結論に至ったからというのもある。

 アリスは宍粟の隣に来て、それを真似ていた。頬を膨らませてぶくぶくうがいをする様はとても可愛らしい。


 それから宍粟は朝食の献立を考える。とはいっても、二十二年間実家に住んでいた彼にとって、出来る料理など限られていた。


「雑炊でも作ろうかな。……醤油はさすがに『複製』できないよなあ」

「私、手伝います!」


 発酵の過程で一年間はかかるだろうし、それほどの手間や技術が掛かるのであれば、今のスキルの習熟度合いでは難しいだろう。同様に味噌も熟成の期間が一年もあり、無理だろう。

 とりあえず、にら、ねぎ、しょうが、梅など風邪にいいだろうと思われるものを『複製』する。鰹節はカビをつけて熟成する期間が長く作れそうにないので、だし汁は昆布を使うことにする。調味料は塩だけで我慢してもらうことにした。

 現代の値段の感覚とコストが異なって、宍粟はいまいち能力が把握できていなかった。しかしそれ以上に、料理をほとんどしたことがない、というのが大きかった。


 宍粟がこれからどうやって作ろうか、と悩んでいると、アリスは土鍋を用意し具材を切り、すぐに調理を終えた。


「アリスちゃん、すごいね。いいお嫁さんになれるよ」

「え!? あの……はい、ありがとうございます」


 宍粟は口元が緩んでいるのを自覚する。この純粋な反応が返ってくることが堪らなく嬉しかった。同じ年頃の少女に「ハァ? あんた何言ってるの? マジきもいんだけど」などと言う返事ばかり貰っていた頃とは大違いである。宍粟は異世界はなんと素晴らしいのだろうか、と感謝せざるを得なかった。


「おはようございます、シソウ様。いい匂いですね。シソウ様がお作りになられたのですか?」


 土鍋を眺めている二人の後ろから、声が掛けられる。


「あ、おはようございます。作ったのはアリスちゃんですよ。俺は料理出来ないんで」

「そんなことないですよ! シソウさんは何でも出来ちゃいます!」

「あらあら。そうですか、アリスが……」


 テレサは嬉しそうに目を細めた。宍粟は過剰な扱いを受けて居心地が悪かったが、瞳を輝かせるアリスを見て、その感情は消えて行った。


「ところでテレサさん、体調はいかがですか?」

「おかげさまで、すっかり良くなりました」


 まだ疲労の色は濃いが、どうやら食事はとってもらえそうである。テレスはアリスに促されて、歯を磨く。その様子を見ていると、どうやら此方でも歯磨き粉や歯ブラシはあるようである。とはいえこの貧民街では高級品の部類なのだろうか。


「では朝ご飯にしましょうか」


 アリスは出来上がった雑炊を小皿に取り分けていく。宍粟は興奮を隠せなかった。シチュエーションとしては、美人な嫁さんと可愛い娘と一緒に朝の団欒をする、というものと大差がないのである。

 そんな宍粟の内心を知ってかどうか、テレサはにこにこと宍粟を見つめていた。


「いただきます。……おいしいね、アリスちゃんは上手だね」

「シソウさんのおかげです!」

「シソウ様には何から何までお世話になってしまいましたね」

「俺も根無し草でしたから、助かってますよ」


 宍粟は誰が見ても爽やかな少年であると見なすだろうと思われるほどの笑みを浮かべた。テレサが時折、宍粟とアリスを見て嬉しそうにしているのを見て、所謂「お前に娘はやらん!」というルートからは外れているだろうと安堵していた。そこで父親のことが気になったが、戦死や病死、行方不明、あらゆる可能性が考えられたので、藪蛇になるといけないので聞かないことにした。


 食事を終えると、テレサはアリスに追い立てられてベッドへと向かった。それからアリスと二人きりになると、コミュニケーション能力の低い宍粟はどこか気まずさを感じずにはいられなかった。成り行きで彼女達の家に泊まることにはなったが、いつまでも居候をしているわけにもいかないだろう。そうなると、仕事が必要になる。


「ねえ、アリスちゃん。ここのお金ってどうなってるの?」

「お金、ですか?」

「俺の世界のお金はこんなのだったんだけど……」


 宍粟は財布から三枚の紙幣と数枚の硬貨を取り出す。その他に入っていたものは、恐らく何の使い道のなくなったカードや入れっぱなしのレシート、緊急時のための飲み薬である。この世界において所有物の中で一番価値があるのは薬であるが、病院で処方された抗生物質などもあり、検査なしで他人に使うのは気が引ける。

 宍粟が出したものをアリスは暫し眺めた。それから千円札を手に取って、矯めつ眇めつ眺めた。


「これが、お金ですか? ……わ、このおじさん、現れたり消えたりします!」

「えっと……国が発行する通貨で、偽造できないような仕組みになってるんだよね。そういうのはないの?」

「私は知らないです。きっと、すぐに偽物が作られちゃいますよ」

「はは、そうかもね。じゃあ本位貨幣なのかな。金貨や銀貨はあるの?」

「はい! 金貨が一枚で、銀貨百枚分です。銀貨が一枚で、銅貨が百枚分です!」


 アリスは家の奥へぱたぱたと小走りで行くと、小さな銅銭を持って帰ってきた。この国の文字が刻まれた、小さなコインであった。宍粟はそれを手に取って思案する。金銀銅の通貨レートは現代におけるレートと大差がない。


「銀の価値が高かった、とかってことはないの? 電解精錬とか、もう既に確立されてるのかな?」

「えっと……?」

「ああ、ごめん。金属を取り出すのに、種類ごとの違いはないのかなって」

「ないですよ?」


 宍粟は首を傾げる。イオン化傾向の違いがあったはずだ。全く同じということはないだろう。そんな宍粟にアリスは伝える。


「魔法で分離できるそうです」

「……へえ」


 宍粟は斜め上の回答過ぎて、何も言えなかった。しかしふと脳裏に名案が閃いた。思い立ったが吉日、すぐさま手を振りかざした。次の瞬間、掌の中には小さな銅貨があった。


「ははは! 大富豪も夢じゃないぜ!」


 宍粟は高笑いする。本位通貨であるということは、ばれなければ複製が犯罪にはならないのである。番号が振ってあるわけでもなし、そうそう見つかりはしないだろう。流通量が増えれば価値は下がるが、それだけだ。駄目ならそもそも潰して延べ棒にでもすればいい。


「シソウさん……!?」

「あれ、何かまずかった?」

「いえ、そうではない、ですけど……見つかったら、多分、国で雇われることになると思います」


 宍粟は焦り始めた。そして聞き耳を立てるが、特に異変は感じられず、安堵した。見方を変えれば危険人物や金のなる木なのである。一生拘束される可能性があることを考えると、軽率な行動は控えるべきだった。

 一方でアリスは何かを考えてから、少し寂しそうに口を開いた。


「でも、その方がいいかもしれないです」

「え?」

「そうすれば、ここよりも安全に暮らせます」


 アリスはそういって笑うのだった。確かにその案は悪くないかもしれない。交渉の材料を残しておけば、寝首をかかれることもないだろう。しかし重要な欠点がある。厳重な監視の元ではアリスと会えなくなってしまうということだ。


「うーん。どうするかはまだ決められないけど……だけど、その時は俺だけじゃなくて、アリスちゃんもいい暮らしが出来るようにするよ」

「私のことは、気にしなくていいです」

「俺がそうしたいんだよ。嫌かな?」

「嫌じゃない、です。……ありがとうです」


 宍粟はこれからもアリスと一緒に居られるように、ここぞとばかりに語った。アリスの真っ白な頬はほんのりと赤くなっていた。宍粟は気分が良くなってきたので、アリスを誘うことにした。


「アリスちゃん、何か欲しいものはない? 通訳魔法の練習も兼ねて、お店にでも行こうかなって思うんだけど」

「あの、お金が……」


 宍粟は家の奥の小部屋へと駆け込んで、それから両手に銅貨を抱えて出てきた。調子に乗ったせいで、魔力不足による疲労で少し足元がおぼつかない。その行動だけを見れば完全に変質者であった。


「足りないかな? あんまり価値が分からないんだけど」

「大丈夫だと思います」

「じゃあ一緒に来てくれる?」

「……はい!」


 勇気を振り絞ってアリスの手に触れると、彼女は宍粟の手を握り返してくれた。宍粟はそれだけでもう十分すぎるほどに満足していた。


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