第二話 新しい住居
いつまでもアリスの可愛らしい姿を見ていたいような気もしたが、遅くなってから告げられたのでは担当の者が困るだろう。シソウは手続きをしに行くからまたあとでね、と席を立った。アリスはすっくと立って、案内しますよ、とシソウの前を歩き始めた。
シソウはしゃんと立つアリスの様を見て、彼女も変わろうとしているのだと思う。それは決して悪いことではなく、成長の証だろう。
「どうしたんですか? おいて行っちゃいますよ」
そんな冗談を言うアリスは、いつもより大人に思われた。
それからシソウは手続きを終わらせると、アリスと別れてテレサの元に向かった。今は恐らく自室にいるだろうと聞いていたので、その扉をノックすると、変わらないテレサの声が聞こえてきた。
シソウは弾む心で、ドアを開けた。それは憧れの人を思う少年のそれに近かった。テレサはシソウを見るなり、席を立った。
「こんにちはテレサさん。今お時間大丈夫ですか?」
「ええ。いつでも歓迎しますよ」
シソウは促されて中に入ると、甘い香りがして、女性の部屋だということを強く認識するのであった。何度かこの部屋には入ったことがあるものの、依然として慣れることは無かった。
それからテレサと二人でベッドに腰掛ける。暫し、二人は無言になった。彼女とならそれさえも居心地好く感じられるのであった。シソウはテレサを横目で見ると、端整な横顔が目に入った。穏やかでそして、どこか子供っぽささえ感じさせる無邪気さが感じられた。
海のように深く美しい青の瞳が、シソウをじっと見つめた。シソウはまるで魔法にでもかかってしまったかのように動けなくなって、彼女の息遣いを感じていた。艶やかな唇の端が少し上がった。
「こうしてシソウ様といると、自分の立場も忘れてしまいます」
テレサはそう言いながらも、嬉しそうに見えた。それが何を意味するのか、シソウは見当をつけられなかった。むしろ、心のどこかでそれを受け止められなかった、といった方が正しいかもしれない。
きっとそれが叶うことなどなく、彼女も本気でそう願っているわけではないのだから。それゆえに、シソウは本来の用事であった、権利の譲渡の話をすることにした。ほんの一瞬の甘美な雰囲気は、それによって終わりを告げた。
「シソウ様は忙しいですから。……無理をしていませんか?」
「大丈夫ですよ。……俺は貴方の力になれていますか?」
シソウの表情には、ほんの少し不安が滲んでいた。テレサはシソウの手を取って、微笑んだ。それはあまりにも穏やかな笑みで、柔らかな手を伝わってくる温もりは、きっと神々の祝福よりも心地好い。
「はい。誰よりも」
その言葉はすっと頭に入ってきて、全身へと滲んでいくようだった。
それからシソウは王城を出ると、すぐ傍らにある建物へと向かった。その建物は、城の隣にありながら、近代的な作りで鉄骨が使われている。シソウが大雪境で見た研究施設を参考に設計したものである。シソウは建築学に見識が高いわけではないが、材料力学などの単位も修得していたし、CADも使用したことがある。そこで現地の技術者と協力して、問題が無いかを確認しながら、この近代的な建造物を作り上げたのだった。その入り口にはアルセイユ国立研究所と書かれている。
アルセイユにはこれといった産業がない。新興国であるためそれは仕方がないことであった。そこでこの世界で初の高等教育施設を作ることで、人材を集めようとしたのだ。いずれは一定数他国からの留学を受け入れることで、資金と優秀な人材の確保をすることができる。そしてその利益はアルセイユへと還元されることになるだろう。
そうして出来上がったのが、貴族たちが通う共同出資の家庭教師的な学舎ではなく、国営の教育機関兼研究施設としてのこの建物である。その運営はテレサに申し出たシソウがすることになった。
まず初めに行ったのは教育内容の選定であるが、これには苦労した。文化の違いがあり、そして戦争に利用されないようにするため、ニトロ化合物などの項目には注意を払ったりする必要があった。
そして教科書については、理数科目はシソウが何とか書き上げた。文字や数字の違いなど、慣れるまでに暫く時間はかかったものの、研究施設にいたナターシャの協力もあって何とかやっていけたのである。
それから国語、地理、歴史、政治経済といった内容についてシソウはからっきしであったので、大部分を国の貴族たちに任せることになった。それらの科目によってセンター試験の点数が落ち込み、足きりをされたシソウとしては思い出したくないことである。そのため思想の偏向や事実の歪曲がないかを確かめるだけで済んだ。
そして誰でも受け入れ可能な初等部、基本的な科学を理解していることを前提とした中等部、そして専門的な内容を理解可能な人材のみの高等部とした。高等教育は大学の基礎科目を中心としており、理系の科目がバランスよく学べるようになっている。これはシソウが滑り止めの大学で、その鬱憤をひたすら学問にぶつけたことが功を奏したと言えよう。
そしてこの建造にはもう一つ、理由があった。それはシソウ個人の研究室が欲しかったというものである。この世界で魔法の研究は、魔法使いが行うことになっていた。それは真理の探究という名目である。しかしどれも定性的なもので、あまりにも漠然としすぎていたのである。
いずれは魔法の研究や科学の普及によってアルセイユの名は広く知られることになるだろう。これによってシソウにこれといった利益があるわけではなかったが、この世界がそれによって少し良くなって、テレサが喜んでくれるなら、それだけで良いと思えたのだ。
その一階に入ると、衛兵はシソウを見てすぐに礼をした。シソウは特に気にした様子もなく、奥へと向かっていく。その途中、一室を覗くと中では数人の魔法使いと技術者がせっせと働いていた。声を掛けるのも悪いかなあ、と思っていると、彼に気が付いた一人が声を上げた。
「理事長! 順調に生産できてますぜ!」
「ああ、うん。いいんじゃないかな」
シソウの目の前で作られているのは、紙と鉛筆である。シソウがそれぞれ複製したものを使っているのを見て欲しがる者が多かったので、実験的な製造工場を作ってみたのである。
それぞれこの世界でも同様の物はあるが、例えば筆記用具に関しては、墨が主流であった。黒鉛鉱から採取して鉛筆のようなものを作ったりもしているようだが、科学が発展していないこの世界で、コークスから作る方法は知られていないようだった。そのため依然高価なままであった。
シソウはそこに魔法を用いることで、いくつかの過程を省略してコークスから黒鉛を生成する方法を手順化した。それは全てを機械に頼るFA化に逆行するものであるが、恐らくこの世界ではその方が適しているだろう。
それから隣の部屋では、ここに通う生徒たちが電池を作っていた。原理自体は小学校で学ぶものであり、高校生ならばその化学式も知っているだろう。シソウにとって大した技術ではないのだが、それに夢中になる姿は、自分の過去と重なるものがあった。
シソウはふと微笑んだ。階上に上がって、いくつかの研究室を過ぎて、ようやく理事長室に辿り着く。シソウはずっとここに住んでいるのだが、これはシソウ名義の部屋ではなく、役職に与えられるものである。そしてラーメン屋の住居も明け渡した。つまるところ、シソウは今住所不定なのであった。
その扉を開けて中に入ると、真面目に働くマーシャとナターシャの姿があった。マーシャはシソウを見るなり、駆け寄った。
「お帰りなさい! ご飯にする? お風呂にする? それとも私?」
「どこで覚えたんだよそんな言葉。さっき飯食ったし、風呂は寝る前に勝手に入る。そしてマーシャはさっさと仕事に戻れ」
ぶーぶーと文句を言いながら席に戻るマーシャに呆れながらも、こんな生活も悪くはないと思うのであった。