第三十六話 最後の日
シソウはその日、朝から治療施設を訪れていた。あれから破傷風患者には重篤な副作用もなく、しかし末期症状であった者たちはなくなった。仕方がないことだと理解しつつも、完全に割り切ることは出来なかった。
こんにちは、と一室に入ると、すっかり元気そうな青年とベネットの姿があった。二人に仲睦まじい様子を見せつけられても、シソウはそれに嫉妬するようなことはない。それはシソウに余裕が出来たからではなく、単にベネットの容姿が好みではなかったからだ。
「どうですか。何かありましたか?」
「いいえ。お陰様で」
青年はシソウに頭を下げた。それに続いてベネットも礼をする。シソウは別にこんなやり取りをするために来たわけではなかった。
「それで、お二人はこれからどうなさるんですか」
「まだ先のことは分かりませんが、二人でやっていこうと思います」
そう言って、彼らは顔を見合わせた。自分がするのはいいが、他人のこういうシーンを見ているのは非常に居心地が悪い、シソウはベネットに用件だけを告げてさっさと帰ることにした。
「三日後に大雪境を立ちます。それまでに決めておいてくださいね。セツナ様は両国の関係を表明するいい機会だと、後押ししてくれるそうですよ。テレサさんは、ベネットもそろそろいい年なのだから、これを逃すともう後がありませんよ、と言っていました」
騎士という立場は個人だけのものではない。その責任もあり、外国籍の者との婚姻は、政治的問題にまで発展する可能性が有る。そのため二人の結婚は難航する可能性もあったのだが、大雪境のアルセイユへの感情はここ数日で、近しい隣人へと変わっていた。
また、シソウとしては付き合う期間などなく急な婚姻にまで発展するのはどうかと思うのだが、この世界で付き合うという習慣はないらしい。確かに日本にいた頃も交際だけでは強制力が皆無で、内縁でなければ形式的には何の意味も持たないものだった。そんな法的に無意味なものが流行っているのは、生活に余裕があるからだろう。
この世界での死亡率は高い。それなら出生率も高い必要があり、国力の増加に結婚、出産が奨励されていても何らおかしくはない。そのためこの急な結婚話も珍しいものではなかった。
シソウとて幸せな結婚生活に興味がないわけではないが、まだこの世界を見て回ることも出来ていないのにどこかに縛られるというのは、不都合が多すぎる。嘆息すると、そんなことを考えざるを得なくなった原因の、目の前でいちゃつく二人を適当にあしらって、さっさと城に戻った。
こんな至極どうでもいいお使いをしているのは、何もすることがないからである。それからテレサの部屋を訪れると、アリスと二人で荷造りをしているところであった。
「伝えてきましたよ。まだどうするかは決まってないそうです」
「そうですか。ありがとうございます」
何か手伝おうか、とアリスに声を掛けると、彼女は慌ててぶんぶんと手を振った。
「大丈夫ですよ! シソウさんは座っててください!」
シソウは言われるがままに椅子に腰かけて、アリスの様子を眺めた。その途中、荷物の中に私服など個人的な物が見える。ああ、確かにこれを手伝われるのは嫌だろうな、間が悪いと思いながら、視線を逸らした。
「テレサさん、大雪境はどうでしたか?」
シソウはテレサにそう尋ねた。彼女はそれをどう受け止めるのだろうか。一国の王として、それともただ感じたことをそのままに答えるのか。テレサは一度手を止めて、シソウの方を見た。
「随分と関係は良くなったと思いますよ。友好国としてやっていけそうです」
そう言ってシソウに微笑むのだった。それは自分に対しての言葉なのか、それともただ事務的な答えなのか、聞いてみたいような気もしたが、彼女の笑顔を見ていると、どちらでもいいと思えた。
ただ、この国に来て良かったと。こうして小さな一歩ずつ積み上げていけば、いずれ何かを成し遂げることが出来るのではないかと。そう思えた。
翌日、シソウはセツナに呼び出されて、彼女の元へと向かった。そう言えば報酬云々の件はまだだったな、と思い出す。そして魔物の王を狩ったことも。
セツナは王座に座って待っていた。一応形式的なものを重視したのだろう、美しい水色の槍を持っている。しかし隣に控えているサクヤ以外に人はおらず、そして気軽に話しかけてくるあたりで、もはや雰囲気は台無しであった。シソウにとっても、その方がありがたかったのだが。
「さて、決まったかえ?」
「ええ。これを受け取ってください」
セツナは戸惑った。褒美を与えるためにこうして会っているのに、何故か逆に貰う立場になっているのだから、それも当然かもしれない。シソウは袋から真っ白な毛皮を取り出した。それは以前シソウが狩った魔物の王のものである。
「兵士たちに聞いたのですが、毛並みも良く王族にふさわしいものだと。セツナ様に似合うかと思いまして」
「そ、そうか。……似合うか。うむ、頂くとしよう」
そう言ってシソウはセツナとサクヤに毛皮を渡した。サクヤは暫く困惑して、セツナの方を気にしていたが、シソウに押し付けられて渋々受け取った。
「他には何かあるか?」
「……では槍を貸していただきたく存じます」
「この槍は王族に伝わる物でな。そのゆかりの者しか持つことを許されておらぬ」
「はい。ですからその権利だけ、つまり形だけのもので良いのです」
そう言ってシソウは槍を持つセツナの手に自分の手を重ねた。セツナは赤くなって俯いた。だからシソウが怪訝そうにしているのを見ることは無かった。
「うむ。そうか、そうじゃな。サクヤ」
セツナに呼ばれたサクヤは、彼女に言われて、指輪を取り出した。緑がかった水色の、美しい指輪であった。それは二人の白磁のようで滑らかな指に似合うだろうとシソウは思った。
そうしていると、セツナはシソウの手を取って、その指輪をはめた。
「あの、これは……?」
「土地の特性を変えることが出来る。……そんなことはどうでもよいな。なくすでないぞ」
そう言ってセツナは顔を背けた。シソウは何が何だかよく分からなかったが、とりあえず貰っていいのだろうと認識した。サクヤは、退室していくシソウと、まだ顔が赤くなっている自らの仕える王であり親友であるセツナを交互に見て、何かを言おうとしたものの、ただため息を吐いた。
それから二日。ようやく旅立つ日が来た。二十日間にすら満たない短い期間であったが、この国での生活は非常に有意義なものであったとシソウは思う。
セツナとサクヤは見送りに来てくれた。シソウが二人と挨拶を済ませると、キョウコは駆け寄ってきて、また会いに来てね、頑張るから、と告げた。シソウは笑って、ただ一言頑張れよと返した。
挨拶が終わったテレサとアリスと一緒に、馬車へと乗り込む。ちゃっかりマーシャとナターシャは既に乗り込んでおり、シソウが乗るとマーシャは笑顔で手を振ってきた。これからの予定など、聞くのも面倒になっていたので、窓を落として馬車から外を眺めた。
馬は鳴き、そして手を振る人々が遠くなる。段々速度が上がって、やがて彼らの姿は見えなくなった。大雪境の城も、僅かに降る雪で霞んでいく。
この国に来たばかりのとき、周囲は大雪であった。そして今、馬は軽快に走っていく。軽やかに、勢いよく。
アルセイユは、もうすぐそこである。
第二章 雪の女王と紅の姉妹 <了>