第三十五話 IgG
シソウは暫くそのままの体勢でじっとしていたが、やれるだけのことはやらねばならない、と立ち上がった。そしてキョウコの屋敷へと駆け出した。街の中を一気に駆け抜け、そして辿り着くなり、キョウコに告げて納屋へと足を踏み入れた。
そこには放置されたままになっている電動発電機がある。シソウは発電機の部分と取り外して、魔力駆動の電動機部分のみを残した。そこに冠歯車と平歯車を組み合わせ、回転軸の向きを地面と垂直にする。
それから、試験管を『複製』して取り付け、即席の遠心分離機が出来上がる。一度試しに回転させてみるが、外れて吹っ飛んでいくということもなく、上々の出来栄えであった。
しかしこれを作るのが目的であったわけではない。シソウがやろうとしていることは、抗血清の精製である。人体に異物が侵入した際、免疫グロブリンというたんぱく質が生産され、免疫が活発になる。これが含まれているのが抗血清である。
これは大抵、ウマなどに病原体を注射して、その出来上がったものを利用するのだが、シソウは少量手に入れば後は『複製』するだけでいい。そのため人から入手した僅かな血から高純度の免疫グロブリンを生成すれば良いのだが、それには少々困難が伴っている。
血液から血清を手に入れるのは遠心分離機を用いるだけで良い。しかしその夾雑物を取り除くのには硫安が必要であり、精製にはカラムクロマトグラフィーを用いる必要がある。加えて無菌状態で行わなければ、雑菌などが混入し、却って危険な状態を招くことになる。
いくら工学的知識があるとはいえ、参考資料も何もない状態で、それを行うのは不可能であった。そうだと分かっていても、何かしなければいけないと思うのだ。
シソウは何もしないよりは体を動かしている方が名案も浮かぶだろう、と指の先を切って血を流した。量が足りなかったので、『複製』して増やし、試験管に注ぐ。
次の手段を考えながら、三十分ほど放置する。そして血液が固まると、赤血球と、透明な液体である血漿に分かれていた。血漿を取り出して、即製の遠心分離機にかける。そして出来上がった血清が手に入る。
しかし問題はこれからなのだ。これをどうやって精製するのか。その手段はいくら考えても見つからない。
「俺に出来ることなんて、たかが知れてるのかなあ……」
自分に出来ること。それを思い浮かべたシソウはふと気が付いた。自分は先ほど血液を『複製』したのだと。そして以前、セレスティアに抗生物質を渡したときには、部分的に複製を行うことでそれを達成した。
ならば今度もそれを行えばいいのではないか。
シソウは早速、血清に触れて、免疫グロブリンのみの『複製』を試みる。当然、すぐに上手くいくことなどなく、それでも何度も何度も繰り返す。最後の望みをかけて、繰り返す。もはや他に手段はないのだと。
納屋にいるせいで、どれほど時間が経ったのかは分からない。数時間にも数分にも思われた。ただひたすらに同じ作業を繰り返していたシソウはようやく糸口を見つけることが出来たような感覚を得た。
出来上がったものは、願った物とは異なるが、粉末のタンパク質状の物であることは確認できる。恐らく、免疫グロブリン以外のタンパク質が含まれているためだろう。とはいえ、一歩前進したのであった。
更に時は経って。シソウの目の前にはようやく、白い粉末があった。それは意図したものである。達成感は全くなかった。ただ、助かった、それだけの感情があった。
これならば、精製の過程をある程度すっ飛ばしても問題はないはずだ。シソウはすぐに納屋を飛び出した。
シソウが慌てて治療施設に入ったとき、外は既に暗くなっており、今朝方まだそれほど症状が重くなかった者たちも、悪化していた。その見るに堪えない光景の中、シソウはベネットを見つけた。
彼女はテレサの護衛で来ているのだから、いてもおかしくはないのだが、その様子は異なっていた。横になっている一人の青年の隣で心配そうに眺めているのである。シソウは以前、その青年とベネットが会話しているところを目撃していた。
他人のそういった感情に口を出す趣味はないが、人の関係に国はそれほど関係があるわけではないということを強く感じさせられるのであった。
「シソウさん? どうしたんですか?」
そうした光景を眺めていたシソウに、声が掛けられた。振り返ると、アリスの姿があった。
「血が欲しいんだ」
「え? あの……? 私のでも、いいんですか?」
アリスは何のことだか全く分からず、困惑していた。シソウはあまりに急いていたため、少々動転していたのである。それを反省しながら、改めて用件を告げた。破傷風患者の血が欲しいのだと。
「血ならいくらでもあります。使ってください」
シソウは青年に声を掛けられた。ベネットは驚いたようだったが、シソウは彼の意思を尊重した。シソウは血をほんの少しだけ取ると、礼を言ってすぐさま施設を出て納屋へと戻っていく。
そしてすぐさま作業に移った。そのままの状態では難しいので、血を『複製』して増やし、試験管に入れて血漿を作る。そして遠心分離器にかけて、出来上がった血清を手に取り、意識を集中させた。
たった一つの成分だけを願い、そしてそれを実現させる。
ほんの少し時は進んで。その手の中には、真っ白な粉末があった。
「『抽出的複製』ってところかな。……よし」
再び施設に戻ると、何度も行ったり来たりを繰り返すシソウを、周囲は怪訝そうに眺めていた。それを気にすることもなく、シソウは先ほどの粉末を水に溶かし、それを『複製』した注射に注いだ。
「シソウさん、さっきから何をしてるんですか?」
「呪いを取り払うおまじないさ」
周囲にとって、そう言いながら見たこともない器機を手にしているシソウは狂気の人であっただろう。しかしベネットはすぐに駆けよってきて、お願いします、と頭を下げた。
シソウにとって、これは完成品というわけではなく、試験的な出来なのである。これでショックなどを起こすようであれば、使用することはできないし、効果がなくても意味がない。
その旨を伝えると、青年は俺が実験台になります、と告げた。このまま死を待つよりはずっとましだと。シソウは決心をして、彼へと歩み寄った。
「痛いですよ。俺も初めてですから」
「お手柔らかに頼みますよ」
シソウは傷の近位部に筋肉内注射を行う。ショック症状の有無を確認し、それから適切な量を。重篤な問題もなく目立った効果もない。とりあえずこれ以上のことは出来そうもなかった。
「後は運を天に任せるしかないですね」
「ええ。死ぬ前に期待が持てて嬉しいですよ」
「もう少し信頼してくれてもいいじゃないですか」
青年はそんな冗談を言うが、隣のベネットは全く笑えなかった。気にするな、と青年は彼女を軽く小突いた。そんな二人の邪魔をしてはいけない、とシソウはその場を離れた。それから同様の説明を行って、他の患者にもそれを用いた。
呪いが治るわけない、と誰もが半信半疑であったが、藁にも縋る思いなのか、それとも賭けにでも乗った気分なのか、全員がそれを受け入れた。
これで失敗したら、と思うとシソウは目の前が真っ暗になる思いだった。それと同時に思うこともある。どうやら自分の性格は、感情に支配されやすい物に変わっていっているのだと。それは現代人としてではなく、この世界に生きる者としての感覚だろう。
どうしようもなく馬鹿げている。けれど、悪くない気分であった。