第七話 優しい香り
宍粟の覚醒したばかりの脳内を、甘美な香りの魅力が覆い尽くした。どんな花の香りよりもまろやかで、それでいて濃厚な深みがあった。その正体が気になって思い瞼を無理やり上げる。
そこで宍粟は寝てしまったことを思いだした。出会ったばかりの他人の家で寝るとは、何たる失態であろうか。そもそも、今まで他人の家に泊まったことすらなかったのだ。何せ親友がいなかったのだから。
まず目に入ったのは、古びた天井である。それから目だけを動かすと、布が目に入る。そこでようやくまともな思考が働き、そしてすぐに動転した。
(まさかまさかまさかこれは……! アリスちゃんのベッドではないか!?)
恐らく二人で住んでいるのだから、よく考えずとも当然である。体に掛かっている布を口元に持ってくると、甘い香りがした。
(おおおおおお! すげーいい匂いがする!! うおおお!)
彼が女性の匂いを嗅いだのはこれが初めてのことであった。繰り返すが、彼は友人が極端に少なかった。彼が冷静さを失い無我夢中になっているのも、仕方がないことなのかもしれない。
「シソウさん? お目覚めですか?」
可愛らしいアリスの声が聞こえた。振り返ると、無邪気な笑顔のアリスの姿があった。宍粟は罪悪感でいっぱいになった。
「うん。……結構寝ちゃったかな」
「ほんの一、二時間ですよ」
「そっか。……ベッド、ありがとう」
恐らくは、減った魔力が回復して意識が戻ったのだろう。それにしても、あれほど魔物を狩ったというのに、これほどすぐに魔力が尽きてしまうとは、やはり才能がないのだろうか。それともこのチートスキルが燃費が悪いのだろうか。しかし物理法則を捻じ曲げる能力なのだから、それを考えれば低燃費と言えなくもないのかもしれない。
宍粟はベッドから降りると、空のコップが目に入った。
「飲み物、飲んでくれたんだ」
「はい。ちょっと元気になったみたいです」
宍粟は安堵しつつ、それなら、と再び経口補水液を作る。食べられるのであれば、流動食の方がいいのではないか、との考えに至ったとき、奥から物音が聞こえた。アリスは何かを話しかけているが、どうやら通話魔法は意識した相手にしか届かないらしく、その意味は分からない。
「お母様、目が覚めたようです。あの、それ……」
「ああ、うん。はい」
飲み物を渡すと、アリスは笑顔で受け取って、母の所へと駆け寄る。そしてその様子を眺めていると、どうやら多少体調は良くなったらしい。
「シソウ様……ありがとうございます」
「体調はどうですか」
「ええ、よくなりました」
宍粟は近づいていき、額に手を添える。およそ三十八度だろうか。脱水症状に気を付けて安静にしておけば問題はないだろう。むしろ、それ以上何か出来るだけの知識はなかった。
「熱は大丈夫ですね。……汗をかいているみたいなので、体温を下げないように着替えた方がいいかもしれないです」
「はい、そうします」
彼女は快諾する。宍粟は今出来ることはそれくらいだろうかと考えたところで、ふと気になることがあって、言葉を続けた。
「あ、後で便を見せてもらえませんか?」
彼女は暫く黙っていたが、小さく頷いた。女性にとってあまり触れられたくない問題かもしれないが、下痢が続いているのであればそれ以外の不安もある。
血が混じっていれば赤痢、黒っぽければ胃などの出血、白いコメのとぎ汁状であればlコレラの可能性が有る。その確認のために宍粟は告げた。
それから暫くの間、宍粟はアリスに通訳魔法を習っていた。言葉に意味を乗せて伝える魔法らしく、発する音は関係ないらしい。しかし宍粟はどうにも才能がないのか、一向にうまくならなかった。むしろ、こちらの言語を覚える速度の方が早いくらいであった。英語同様の文法を持ち、通訳魔法のせいか、大雑把な文章構造をしていたためすぐに理解できたのである。
「私は日本人です」
「……分かんないです。もっと強く念じて下さい」
アリスが通訳魔法を使用せず、宍粟が告げる。その練習を何度も繰り返すが、同じやり取りが続けられるだけである。
「もっと気持ちを前面に出してください。もう一度」
「気持ちか……よし」
「頑張って下さいね」
アリスは宍粟以上に気合が入っているのか、握り拳を作って、やる気満々に宍粟を見ていた。
「アリスちゃん可愛いなあー……」
彼女は今、通訳魔法を使っていないので、思わず気が緩んで呟いてしまった。何の気なしに呟いただけなのだが、アリスは俯いて真っ赤になっている。
(まさか……成功したのか? いやまさか。嘘だろ?)
成功したはずなのに、素直に喜べなかった。他の言葉でも試してみる。
「アリスちゃんのお母さんのお名前を教えて下さい!」
「……テレサ、です」
「おお、通じた。テレサさんね」
それから落ち着いてきたアリスと練習を続けたが、結局成功したのはその二回だけであった。逆に、アリスの言葉を通訳魔法を通して理解するのはすぐに出来るようになった。どうやら、魔法と言うのは欲望に忠実なものらしい。
そうした練習をしていると、テレサが宍粟を呼んだ。彼女は宍粟を小部屋へと案内した。その中にあるのは、半球状の土器であった。そして彼女は扉を閉め、宍粟から顔を背けた。
「シソウ様にはアリスを助けていただき、その上、私にまで援助していただき、感謝してもしきれません。ですが、その……アリスの前ではあまりこういうことをしてほしくないのですが……」
「えっと、便の状態を見て、病気じゃないか確認しようと思ったんですが……もしかして問題がありました?」
テレサは急に真っ赤になって、両手で顔を覆った。
「そ、そうだったのですね! てっきりそういったご趣味がおありかと……本当に申し訳ありません!」
「こちらこそ、紛らわしくてごめんなさい」
確かにあれだけの情報しか伝えていなければ、誤解するのも当然だ。
暫く二人で謝り合ってから、宍粟が告げる。
「便の様子を見たら出ますので、いいですか?」
「はい」
茶色く濁った水の中に小さな茶色の粒が浮かんでいた。匂いは通常通りである。
「病気は無いみたいなので、風邪だと思います。恐らく二、三日で治るでしょう。では」
宍粟は部屋を出る。
(そういえば、汲み取り式でもないし、どうなってるんだろ?)
そんな彼の疑問はすぐに解決した。テレサが扉を開けると、中には元通りの半球の器があり、片隅には小さな土の球体があった。
(なるほど、魔法か)
二人が気まずさを感じていると、気が付いたアリスが首を傾げるが、すぐに彼女は真剣な表情で尋ねた。
「お母様の容体はどうなんでしょうか?」
「大丈夫だよ」
宍粟がそう伝えると、アリスは破顔した。
それからテレサは着替えを済ませ、再び眠りについた。外はすっかり暗くなっており、宍粟がこれからどうするか、と考え始めたところで、アリスが服の裾を引っ張ってきた。
そして彼女は宍粟を見上げる。
「あの……一緒に寝て下さい!」
何と言うことを言うんだ、というのが宍粟の感想であった。こんな幼い子が言うセリフではないだろうと。
「ええと……?」
「お母様は容体が優れないです。ベッドは二つしかないので……」
(ああ、そういうことね)
宍粟はアリスが純粋なままであるのだと、安心した。
「俺は床で寝るからアリスちゃんが使っていいよ」
「それはだめです!」
一緒に寝るのはそれ以上にだめだと思うんだけどなあ、と宍粟が考えたところでふと気になることを思い付いた。
「そうだ、俺何歳くらいに見える?」
アリスは急な質問に戸惑いながらも、おずおずと答えた。
「十四、十五、くらいでしょうか……?」
今までの疑問が全て瓦解した。テレサは思春期の最中の少年と見て、アリスは自分よりちょっと年上のおにいちゃんとでも見なしたのだろう。警戒心の無さも、年齢によるものだろう。
「それがどうかしましたか?」
「……いや、何でもないよ。じゃあ、お言葉に甘えることにするよ」
「はい!」
その晩、宍粟はなかなか寝付けなかった。アリスの温かな吐息がかかったり、寝息や小さな寝言が聞こえたり、これで平常心を保てというのはあまりにも酷であった。