第六話 美少女と美女
「シソウさんは、これからどうするんですか?」
「うーん、そうだなあ」
まだ見ぬ美少女を探しに行く、なんて言えやしないし、それはもう達成したとも言える。目の前の少女アリスは、みすぼらしい貫頭衣で泥や煤で汚れていたが、その金色の髪はウェーブが掛かっており、その美しさが損なわれることは無い。大きな緑の瞳は輝くように澄んでいて、無邪気な笑顔を引き立てる。幼いながらも真っ白で柔らかな肌は魅力的で、天使のように美しい少女であった。
本当はアリスをずっと追いかけていたい、と犯罪者まがいの思考に陥るが、それを否定して一度街に行こうと思っていた旨を伝えることにした。それならば、彼女ともまた会えるだろう、という悪巧みもあった。
「街に行こうと思うんだ。……というか、前にも言ったんだけど、言葉が通じなくて」
「冒険者、ではないのですか?」
「冒険者? ……よく分からないんだけど、君が日本語を話せてよかった。この世界には来たばかりなんだ」
「ニホンゴ……? 来たばかり……?」
アリスは小さく首を傾げた。その仕草が可愛らしく、つい見惚れてしまった。
「……ええと、ニホン? の方なのですか?」
「うん。今君が話しているのは、日本語だと思うんだけど」
「違いますよ。これは私の言葉を意思として伝える、通訳魔法です。冒険者の方には必須の魔法、だそうです」
「へえ……。ええと、俺がいた世界は、魔物も魔法もない世界で、技術が発達した世界だったんだ」
軽々と話すべき無いようではない気がしたが、それは目の前の少女を騙すという大罪からすればどうでもいいことであった。
少女はその大きな瞳を輝かせて、話を聞いていた。
「あの、街へ行くのでしたら、私の家に来ませんか? お礼をしたいです。あと……お話も聞きたいです」
(うおおおおおお! アリスちゃんの家! これはチャンス!)
内心の興奮を出さないようにしながら、努めて冷静に答える。
「お邪魔でなければ、お願いしたいな。俺一人だと、門番に止められちゃうから」
「ふふ……シソウさん、門があるのは南だけなんですよ」
「ええ!?」
「……行きましょう?」
アリスが差し出した手を取って、宍粟は立ち上がる。その小さく柔らかな手の温もりを感じた。そして離れていく手を名残惜しそうに眺めた。
そして二人は歩き出す。
「アリスちゃんはどうしてこの森に?」
「えと、お母様の代わりに食料を取りに」
「なるほど」
幼い少女がこの危険な土地まで赴かねばならないとは、この世界はどうやら相当文明が遅れているらしい。それも尤もかもしれない。これほど魔物が跳梁跋扈する世界では、生活どころか種の存続でさえも危ぶまれているのかもしれないのだから。
「シソウさんは、どうしてですか?」
「そうだなあ。気が付いたらここにいて、街にも入れなかったから、ずっと野宿しててさ。やっぱりアリスちゃんに会えてよかったよ」
宍粟が微笑むと、アリスも可愛らしい笑顔を見せる。本当に会えてよかった、この笑顔を見られただけでも、この世界に来た甲斐があるというものだ。
「ところでシソウさん、その恰好はその……ニホンではそういう格好をするのが普通なのですか?」
ジーパンに、コートの上に身に着けたみすぼらしい鎧と剣。しかもその鎧は半壊している。それはどこをどう見ても、ファッションセンスなど皆無であった。もちろん、元々センスが良かったわけではないが。
「そうだけど、鎧や剣はこっちに来てから拾ったものだよ。向こうでは、戦いってなかったから」
「では戦い方は、こちらに来てから身に着けたんですね」
「まだこの世界に来てほとんど経っていないんだ。実戦向けじゃないけど、多少の剣術は習っていたんだよね。でもやっぱり、魔物との戦いは全然違うかな」
「わ、すごいです。こうなるのを予想してたんですね」
勘違いするアリスが可愛らしく、そして褒められて悪い気がしなかったので宍粟は訂正せずにいた。
それからもアリスは日本のことを知りたがったので、宍粟は科学技術についてつい語ってしまった。見識が深い工学の話になると、饒舌になってしまうのは対人関係に慣れていないからだろう。
しかし車や飛行機の話をするとアリスはとても楽しそうに聞いていた。そしてモータや電気の話をしてもきちんと理解して返事が返ってくるので、とても賢い子であると思うのと同時に、宍粟も楽しくて仕方がなかった。
そうしているとやがて視界が開けて、草原が広がった。今までの道から外れて、門を迂回していくと、やがて門の高さが低くなっていく。そして街の反対側に着いたとき、宍粟は唖然としていた。
そこに広がっていたのは、貧民街であった。
「薄汚いところで、ごめんなさい」
アリスはしゅんとして小さくなって、宍粟を上目遣いに見る。その破壊力に宍粟は一瞬で魅了されてしまっていたが、極力平静を装った。
「ああ、気にしないで。ところでお母様って、どんな人?」
「優しくて、美しくて、とても立派な方です!」
「じゃあ、アリスちゃんはお母さんに似たんだね」
「え!? そ、そそそんなことないですよっ!」
そうして二人は街を歩いていく。血で赤く染まり、剣を佩いた姿に人々は一瞥をくれるが、珍しいことでもないのかすぐに興味を失っていく。路上には浮浪者が大勢おり、異臭を放つゴミが捨てられている。時折出店があるが、日本の感覚では衛生的に不安で仕方がなかった。本来であれば気が滅入る状況であるが、宍粟は小躍りするほどであった。
場所や状況はあまり望ましいものではないが、これは彼にとって初めてのデートと言っても差し支えない行動なのである。そもそも女性と二人きりで出かけたことなどない彼が、いきなり母親に会ってくれと言われたのだ。舞い上がってしまうのは仕方がないだろう。
やがて一軒の小さな木造の家の前でアリスは足を止めた。
「ここです。どうぞ」
「お邪魔します」
鍵はついておらず、アリスが扉を開けて入るのに続く。中は薄暗く、かまどや水桶など、最低限のものしかなかった。
そしてその部屋の奥には、一つのベッドがあった。とはいっても木の枠組みの上に、布を被せただけのものである。そしてその上には、一人の女性が横になっていた。さらさらと流れるような金髪、うっすらと開いた碧眼。白い肌は紅潮し、やつれて唇は乾燥していたが、間違いなく美人であった。
アリスは彼女を見て、こちらの言葉で何かを言いながら、駆け寄った。それから何度か言葉が交わされて、ようやく突っ立っていた宍粟に声が掛けられた。
「アリスを助けていただいて、ありがとうございました。何もないところですが、どうかお寛ぎ下さい」
それは美しい音色のように、脳に働きかけてきた。二人が寄り添う様子は、まさしく天使の親子であった。宍粟はもう使い物にならない鎧を外し、血の付いたコートを脱いだ。
アリスは戻ってくると、変わらない笑顔を作った。
「シソウさん、すみません。何のおもてなしも出来なくて」
「いや、大丈夫。……お母さん、病院には行ったの?」
「……そんなお金、ないんです」
「具合悪そうだけど……発熱と脱水症状だから……下痢? 嘔吐はある?」
アリスは驚き目を見開いた。宍粟は猛省していた。いきなり人の家に上がって、ずけずけと母親のことを聞き出そうとするのだから当然である。これではまるで変質者ではないか、と。
「はい。お母様、飲み物も取って下さらず……。飢饉で食べ物も高騰してて……あ、ごめんなさい、気にしないでください」
アリスが見せた暗い表情は、一瞬で消えた。
「……コップ、借りていい?」
「? ……どうぞ」
アリスは古びて傷のついた木のコップを手渡す。宍粟はそれを受け取ると、『複製』を発動させ、ぬるめの水を注ぐ。それから白い粉をその中へ。
「あの……それは?」
「砂糖だよ?」
「ええ!? そんな高級品……で何をしてるのですか?」
驚きながらも興味津々、という様子でアリスが問いかけてくる。恐らく砂糖は調味料ではなく嗜好品としての扱いであるため流通量が少ないのだろう。宍粟は聞かれると、手を休めることなくすらすらと答える。
「水に対して砂糖4%塩0.3%の割合の質量で混ぜると、経口補水液っていう、吸収が良い飲み物が出来るんだよ。精製済みの上白糖は比重が小さいから、ちょっと体積は割合よりちょっと多めにするんだ」
宍粟が底に溜まった固体を箸でかき混ぜている間、アリスは頷きながら聞いていた。
「で、柑橘類を入れると味がよくなって、クエン酸も取れて吸収が更によくなる。ほら」
宍粟はレモンを複製し、軽く握り潰して汁を入れる。
「シソウさんは、魔法使いですか?」
「うーん。一度触れたものを『複製』できるみたい。他はからっきしだよ」
「すごいです!」
「そんなことないって」
結局のところ、すごいのはこのチート能力と、現代までに蓄積されてきた科学である。それは彼の成した所の偉業ではない。
完成したそれをアリスの母の所へと持っていく。彼女は朦朧としていた。
「あのー、いきなりで恐縮なのですが、飲んでもらえないでしょうか。えっと、怪しいとは思いますが、その。ええと……良くなって欲しいんです」
彼女は暫し戸惑いを見せたが、すぐに見るものをうっとりさせる笑みで小さく頷いた。コップをを近づけると、彼女は少しずつそれを飲んだ。
正直、経口補水液は健常者が飲むと美味しくない。甘いのに妙にしょっぱさがあって、気持ち悪いのである。柑橘類を入れると飲めないことは無いが、塩味が不要に思われる。それでも脱水気味の時は意外といけるものである。
やがて彼女はすうすうと寝息を立て始めた。宍粟はそれを見て、思わず息を飲んだ。硝子細工のような透明感、一分の狂いもない緻密な美貌が、彼の手の届くところにある。雰囲気に飲まれながらも、宍粟は一度顔を叩いて、それきり真剣な表情になった。
「シソウさん、ありがとうございます」
「俺はそんな大したことはしてないよ」
「でも、やっぱりシソウさんは優しいです」
「……アリスちゃんはお腹空いてない?」
アリスの笑顔が眩しくて、宍粟は思わず話を逸らした。それにアリスが元気に答えた。
「大丈夫です!」
「ご飯くらいしか出せないけど、食べる?」
「はい! ……あ」
「じゃあちょっと待っててね」
宍粟は水で手を荒い、真っ白なご飯、そして塩を『複製』する。そこに梅干を突っ込み、それから黒々とした海苔を巻く。
「さあどうぞ召し上がれ」
「あの、これは?」
「ご飯に塩、そして海藻の海苔を巻いたもので、日本のおにぎりって食べ物だよ。具材には梅干って酸っぱい果実を入れたんだ。梅はクエン酸がとかが多いから、消化もいいし、健康にいいんだよ」
「……いただきます」
アリスは美味しそうに食べている。暫くすると、小さな悲鳴が聞こえてきた。
「な、なんですかこれ!」
「梅干だよ。慣れれば大丈夫」
「初めての体験です。すごく刺激的な味がします……」
そうしてアリスの食事を眺めていると、宍粟は猛烈な眠気に襲われる。『複製』の能力を使い過ぎたのである。以前は魔物を狩り魔力を補充していたが、今は連続して使用していた。
宍粟がうつらうつらと船を漕いでいると、アリスが心配して顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですか?」
「うん。……ごめん、ちょっと眠いかな」
「分かりました。ベッド、使ってください」
宍粟はアリスの言うとおりに横になると、すぐに微睡んだ。