第十七話 夢の跡
幽霊屋敷のその地下は、ほんのりと薄暗いかと思ったが、モータがあるくらいだからその逆の発電機くらいあるのだろう、自動で照明が付いた。何の知識もない冒険者がこういった仕掛けを見て幽霊屋敷だと思うのは当然のことかもしれない。
地下に降りると、広々とした空間があった。木製の机にうずたかく積まれたペーパー。そして中央には大型の培養槽と、ピペットやシャーレなど生化学のための器具。近代的な実験装置の数々がそこにはあった。
シソウは紙の束が積まれた机の元に行き、一枚手に取る。そこにもかつての世界で見た文字があった。Abstractと書かれた下には概要が同様に英語で書かれていた。論文の体を成したそれは、古英語とも違う独自の文字が含まれている。しかしシソウが読めることからも、英語であることは分かる。恐らく、写本において書き写すという作業が加わって、そのノイズが蓄積したのだろう。
「ホムンクルス……魔術と科学の融合……確かにこれが実現すれば世界も変わるか」
そこに書かれている情報は、シソウの常識を覆すものである。分化全能性の細胞を作製し、それを成長させた後に、別個に作製しておいた魂との結びつきを作るというものであった。これは魂というものが存在しない元の世界とは異なる摂理だ。そして生命の創造という、ある種の禁忌に踏み込んだものでもあった。
そうしていると足音が聞こえてきてシソウは顔を上げるが、音がする方向は地下室の奥だった。シソウは身構えて退路を確認しながら、その者が現れるのを待った。そして、扉が開いた。
現れたのは、朱色の髪が美しい女性であった。幼さと大人びた雰囲気が両立しているその美貌は、完全無欠とでもいうべきか。寸分の狂いなく整った容貌は、人であることを超越してしまったかのようで、あまりにも美しい。そして身に纏った紅のローブは格別の一品のようで、その美しさを引き立てていた。
彼女はその真紅の瞳でシソウを見つめた後、ゆっくりと唇を動かした。シソウは身動きすることさえも出来ず、それを見入っていた。
「財産が欲しいのであれば持って行って構わない。しかしこのことは誰にも告げないで頂きたい」
「俺が依頼されたのは問題の解決なんだ。金が欲しいわけじゃないよ。何か助けられることは無いかな?」
「……ないな。姉の肉体が出来上がるまで、私はここを出る気はない」
「どういうこと?」
「その論文を見たのだろう? 何も出来ないことを理解したら、さっさと帰ってくれ」
シソウは確かに自分が知っている生命科学とは一線を画することくらいは理解している。彼女は姉の肉体がないと言った、それならば魂はあるということだ。
魂は魔力を生み出すと聞いている。先ほどこの屋敷で感じた魔力は、彼女の姉のものなのかもしれない。そして今目の前にいる彼女は実験の成功体ということになる。ならば彼女の目的は、自身の魂を宿した肉体同様に、魂の無い肉体を用意することだろう。
「それって、死骸とかじゃだめなのかな?」
「無理だろうな。魂に合致する肉体でなければ。私の姉は実験の予備だったんだ。だから私が死ねば、そこに姉の魂を宿すことはできるだろう。……それは最後の手段さ」
彼女は自嘲するように言った。しかしまだ彼女の眼は死んではいない。
「お姉さん、大切なんだね」
「たった一人の肉親さ。大切じゃないわけがないだろう?」
そう言って、さあおしゃべりもそこそこにして帰ってくれと、彼女は乞う。
「じゃあ最後に一つだけいいかな。その体自体に魂はないんだろ?」
「恐らくはな。とはいえ結びつきがある以上、普通の人と何ら変わりはない」
「それならいい」
シソウは笑顔で握手を求めた。彼女はこれで出て行ってくれるなら、と願ったのだろうか、その手を取った。それからシソウは確信を得て、その傍に屈んで手を突き出す。やることは一つ。出来ることは一つ。願うのは、純粋な肉体。空っぽの肉体だ。
シソウが大きく息を吸い、『複製』を開始する。体中の魔力が吸い取られていく感覚の中、笑みを浮かべた。成功だ、と。そして彼の目の前に人型が作成された。
「え? ……いやああああああ!」
彼女の叫び声が響き渡った。その顔は真っ赤である。現れた彼女の複製体は、一糸纏わぬ姿で真っ白な肌を曝け出していた。その美しい肌に朱色の髪が鮮やかに映えており、あらわな小さな双丘と桜色の蕾も初々しい。シソウはその姿を確認すると、脱力してその雪のような肌の上に倒れ込んだ。
「ちょ、ちょっと! だめえええええ!」
彼女が駆け寄って、自らの複製の上から抱きつくように倒れ込んだ少年の体を除けようとしたとき、静かに眠っているように閉じられていた大きな瞳が見開かれた。
「ね、姉さん……?」
彼女の姉は生まれたばかりの体で、初めて微笑んだ。それから自身の上の少年を見て暫く逡巡していたが、嫋やかなその腕で抱きしめた。
その背中には冷たい石の感覚。そして口中には緊張しているのか唾の味。心配する妹の優しい声が耳朶を打ち、目の前の少年の匂いが鼻腔を擽る。今すぐにでもこの体を試してみたい気がしたが、それ以上にこの温もりを感じていたくて、ぎゅっと強く抱きしめた。
シソウは目が覚めたとき、ベッドの中にいた。正面には豪華な天蓋が見える。そして体の感覚から、防具をつけていないことを確認すると同時に、柔らかいものが自分に触れていることに気が付く。
顔をそちらに向けると、笑顔の女性がいた。その容貌は先ほど見た女性のものとよく似ているが、表情は柔らかく僅かにたれ目であるのは愛らしいと言った方が合う。恐らくは先ほどの女性の姉の方だろう。
シソウがこの世界に来たとき同様に、肉体が魂に合わせて変化したのだろうか。そうであるなら、シソウはよほど幼い精神構造をしていたと言えるだろう。そして彼女はシソウの頬に手を当てた。
「あの。その……」
「なにかしら?」
彼女はシソウにより密着するように、身を乗り出した。彼女の吐息がかかって、シソウは心臓が跳ね上がるのを感じた。そして彼女が何も身に着けていないということを認識するのであった。
「どうして、一緒にベッドに?」
「私とじゃ、嫌?」
「全然そんなことはないけど……」
「じゃあ、いいじゃない。このままで」
優しくそう囁かれて、シソウはついその甘言を受け入れようとしてしまう。とろけそうになるほど甘く、そして都合のいい感情が脳を支配していく。もうずっとこのままで、と。
しかし彼女から感じられる魔力で、唐突に我に返った。彼女を『複製』するだけの魔力はシソウにはなかった。そのため彼女の肉体は一時的なもので、時が経てば消滅するだろう。それを免れるには、完全に『複製』するだけの魔力を使用するか、定期的に魔力を注ぐことで時間を伸ばし続けるしかない。
彼女はそのことを知っているのだろうか。もしそうでないならば、ほんのひと時の仮初の肉体を与えることは、却って希望を与えるだけ残酷なのではないか。シソウのその考えは表情に出ていたのか、彼女はシソウの口にそっと指を添えた。
「大丈夫よ。私の体だもの、分かってるわ。だから時が私を置き去りにするまで、こうしていて」
「……その時は、絶対に来ない。俺が君の自由を守ってみせる」
シソウは彼女に手を掛けて、『複製』のための魔力を注ぎ込む。彼女は戸惑いがちに、しかしその感覚に身を委ねた。
「あっ……ん……」
妙に淫靡な声が聞こえるが、シソウは真剣そのものであるため、欲望に忠実になることは無かった。そうして魔力が吸い取られると、その気怠さでシソウは起き上がる気さえしなくなっていた。これで当面は持つだろう、と思い至ったところで、別の女性の声が聞こえた。
「……何をしている」
それは先ほど会った、妹の方だろう。嬌声を上げる姉とシソウを冷ややかに見ていた。