第十六話 お屋敷
早朝、寒気が吹き付けると肌寒さを通り越して、凍えそうなほど気温は低かった。シソウはキョウコの屋敷を出ると、駆け寄ってきたキョウコが抱き着いてくる。
「行ってらっしゃい、早く帰ってきてね」
満面の笑顔で手を振るキョウコに見送られながら、シソウはギルド会館へと向かった。彼女には申し訳なく思うが、ここ最近シソウは一人でいる時が一番気が休まるのであった。
まだ誰もいない通りを行きながら、シソウは一つ欠伸をした。眠気が残っているということから、まだ本調子ではないのだろう。それも踏まえて、とりあえず肩慣らし程度の依頼を受けることにしている。時間にも余裕があるためのんびりと散歩でもしながら、時間をかけてようやくギルド会館に辿り着いた。
冒険者たちの中には早朝から出かけるものもいるため、それなりに賑わっている。シソウは真っ直ぐに依頼が掲げられている掲示板へと向かった。ラインナップはどれも微妙なものばかりである。
魔物の素材を集めるものを除けば、子供相手に剣の稽古をつけるものや、雪かきの手伝いなど、さすがに受けるのは気が引けるものが多い。その中で、シソウの目を引くものがあった。
以前このギルド会館に訪れたときにもあったもので、それは誰でも出来るようなものなのに、まだ解決されていない、ということが気になった。屋敷の訪問云々について書かれたその依頼には、仔細は書かれていない。シソウは受付に向かった。受付嬢は以前来たときと同じ女性である。恐らく朝の勤務なのだろう。
「あの。依頼についてなのですが、屋敷の訪問って」
「やめた方がいいですよ。何でもいわくつきの屋敷だそうで、屋敷の主が死んでからは出るとか」
「うーん。でも事故があるわけではないんですよね?」
「そうですね。その原因の究明が依頼の目的ですが、達成は困難なので他の物がよろしいかと思われます」
「丁寧にありがとうございます。じゃあそれにします」
シソウが簡単にそれに決めたのは、単に面白そうだからという理由に尽きる。受付の女性は一瞬怪訝そうな表情になったが、すぐに笑顔を作った。
それからシソウは詳細を聞くことになった。個人情報の観点からか、内容は別室で告げられた。屋敷の主は偏屈な人物で研究に没頭していたが、その志半ばで没したため借金が残っているそうだ。いつも研究が成就すれば世界が変わると言っていたらしいが、その研究の設備を屋敷に派遣した冒険者たちが見つけてくることは無かった。
それと奇妙なことに、屋敷の主の遺骸も見つかることもなく、失踪の可能性もあるが高齢であったため死亡という扱いになっただけらしい。そのためせめて立派な屋敷だけでも借金の形としたいのだが、このような状況では買い手が付かない。そこで原因を解決してほしいとのことである。
聞いてみるとそこまで珍しい話でも面白い話でもなかったことに落胆するが、誰も見つけることが出来ない研究設備を発見するというのは冒険心をくすぐられるものであった。シソウは話もそこそこに、早速出かけることにした。
目的の屋敷は大通りから外れたところにあると聞いていた。薄汚い裏路地を通って近道しつつ、閑静な住宅街の中に出る。それから暫く進んでいくと、周囲の建物の数倍の敷地を持つ屋敷があった。シソウはギルド会館で渡された、魔法で転写したという写真と番地などの情報を照合して、間違いないことを確認する。
大きな屋敷というと、アルセイユやルナブルクで見た貴族の屋敷を想像するが、この屋敷は妙に近代的であった。三階建てでそこまでの高さはないものの、その壁面には剥き出しの鉄骨が見える、木造が多いこの世界では珍しい作りであった。
装飾を無視して機能性を追求したその頑丈な建物は、シソウに研究所を連想させた。彼が通っていたのは総合大学の工学部であったので、こういった研究施設は良く目にしていた。もしかすると、持主はそういった近代的知識がある人物だったのかもしれない。
思わぬ収穫があるかもしれない、とシソウは錆びついた門を乗り越えて、庭に足を踏み入れた。屋敷へと続く石畳の上を歩きながら、手入れのされていない庭の様子を眺める。それなりに広い庭があるのに、余計なものは何一つなく、木々ですら一本も生えていない。どうやら建築の都合上、庭を造っただけで、何の用途にも使われていないようだった。
それから屋敷の入り口に辿り着くと、玄関の照明が付いた。センサーを用いた何ら珍しい技術ではないが、もしかするとこの世界にはそう言った技術がないかもしれない。ますます、何かありそうな予感がしてくる。
シソウはごく自然にドアチャイムを押すが、それもこの世界にあるかどうかは怪しい。この屋敷は元の世界から来た人物が建てた可能性が出始めていた。何度もチャイムを押してみるが当然持主は既に死亡しているため、出る者などいない。仕方がないので無断でドアノブを捻ると、鍵はかかっておらずドアは簡単に開いた。中は薄暗く、いかにも何か出そうな感じである。
「こんにちは。誰かいませんかー」
その呼びかけに答える者はいない。絨毯などの余計な装飾がない、暫くワックスがけもされていないだろうフローリングの上を土足で行きながら、辺りを見回す。埃っぽいことから、掃除をするものがいないことが窺える。とはいえ、足跡がくっきりと付くほどではないのは、冒険者たちが何度か足を踏み入れているからだろう。
エントランスを抜けると、いくつかの客間の入り口が見えてくる。中を見てみるが、最低限の調度品の他何もなく、持主の性格が表れていた。それから厨房に足を延ばすと、そこには使われなくなった料理道具がそのままになっていた。冷蔵庫の中を開けると、下部に水が溜まっていた。
この世界における冷蔵庫は、電気エネルギーを用いたヒートポンプではなく、魔法で長期間溶けない氷を発生させ、定期的に取り替えるものである。そのため定期点検で魔法使いが来るそうだ。それが溶けていることから、食事も取っていないことが分かる。そして長期の外出なら当然するであろう処理がされていないことからも、急な失踪か急病であることが想像された。
それから二階に上がってみるが、使われていない部屋があるだけで目新しいものは何もない。もう帰ろうかと思い始めた頃、何かが通っていくのを感じてシソウは振り返った。そこには一見何もないが、訓練により鋭敏になっている魔力への感覚は、確かにそこに何かを感じ取っていた。
その感覚に引き摺られるように階下へと降り、気が付けば屋敷の端まで来ていた。その部屋は、何一つ物がなかった。それなのに異彩を放っていた。
床一面には無数の文字と数式が描かれている。それはシソウがよく知っている物だった。英語と日本語が入り混じっており、その上動詞の用法やスペルが所々間違っている。ここまでは紋様と一種として珍しいものではない。しかし論理的な文章構造をしているそれは、未熟というよりは間違った物を元に作り上げたといったほうが適切だろう。
それは難解な言い回しをしていたが、ようはいくつかの数理モデルを表していた。簡単な微分方程式を解き、それが示す座標にシソウは向かった。それは先ほどシソウが何もないと判断した部屋であったが、指示された位置には切れ間があった。そこに魔力を込めると、がらがらと音がして床が開いた。先ほどの文字によれば、魔力駆動式のモータが仕掛けられているようである。
これはいよいよ、何かあるなとシソウは無邪気な笑みを浮かべた。