第十五話 依存と葛藤
夜の大雪境は、朝日に輝く姿とは異なる趣がある。降り注ぐ雪はひらひらと舞い降り、地に落ちて溶ける。その儚くも美しい光景も、当の住民たちにとっては寒く煩わしいものでしかないのだが。
すっかり冷え切った夜、シソウは目が覚めた。気だるさは残っているものの、随分と体調もよくなっていた。ゆっくりと体を起こすと、椅子に腰かけながらベッドにうつ伏せになっているキョウコがはっと気が付いて、慌ててシソウに飛びついた。
「キョウコ、寝てた?」
「うん、ちょっとだけ。シソウお兄ちゃん、大丈夫?」
「大分良くなったよ。だからキョウコも心配しないで、寝ていいよ」
シソウはそう言ってキョウコに微笑むと、ベッドから降りて部屋を出た。寝ている間に汗をかいたせいで衣服はべたつき、着心地が悪かった。日本に生まれたシソウは毎日風呂に入っていたので、風呂がそこまで一般的ではないこの世界に来たからと言って急に慣れることもない。そんなわけで、シソウは土間に向かっていた。
古びた階段を下りていくと、眠そうに目を擦っている少年の姿を見つけた。この世界の住人は比較的早寝早起きであるため、彼もトイレに起きただけだろう。少年はシソウの姿を認めると、駆け寄ってきて容体を訪ねた。シソウはぶっきらぼうとも取れるほど簡潔に答えて、再び廊下を行く。
そして土間に入ると、お手製の籠が目に入った。すっかり風呂に馴染んだこの屋敷の住人達によって、土間には着替え用のスペースが確保してあり、浴室とは区切られている。そしてシソウが温泉の話を少ししたことで、それっぽい設備が揃えられていた。誰も入っていないことを確認すると、シソウはおもむろに衣服を脱ぎ始めた。
浴室に入りながら、お湯を『複製』する。急に冷たい水が出るようなこともなく、意図したとおりの温度のお湯が出るのだから、そう言った面ではシャワーよりも便利かもしれない。そんなことを考えながら体を洗っていると、がらがら、と扉が開く音がした。
「あー、今入ってるよー」
「うん。知ってるよー」
おや、とシソウは首を傾げる。返ってきたのは、聞き慣れた少女のものである。それから衣擦れの音がして、一糸纏わぬ姿でキョウコが入ってきた。その矮躯には成長の兆しが見え、小さな胸は膨らみつつあった。
「あのさ、キョウコ」
「なあに? シソウお兄ちゃんとずっと一緒だったから、入りそびれちゃったの。一緒に入るなら、面倒じゃないかなって」
そう言われるとシソウは何も言い返せず、浴室に入ってきたキョウコにお湯を浴びせてから、その頭をぐしゃぐしゃと洗う。シソウにとって、人の頭を洗うというのは初めての体験であった。いつか子供が出来たら、こうして一緒に風呂に入ることになるのだろうか、などと考えながら艶やかな黒髪を丁寧に洗っていく。そしてお湯を『複製』して洗い流した。
「体は自分で洗えよー」
「うん」
キョウコに石鹸を渡して彼女が体を洗っている間に浴槽に湯を貯めていく。二、三十人は入れる大きさの湯船は、一人で使う分には不便でしかなかった。ようやく湯が溜まると、シソウは肩までつかって、ふう、と一息吐いた。
そうして温かさに包まれると、安らぎが満ちて来てこれからのことに思いを巡らせた。農場の管理体制は向上の余地がある。東の魔物はボスを討伐したので、これから暫くの間魔物が散らばる可能性はあるが、以前より安全にはなっただろう。そのため次は西の森に行くのが良さそうである。
そこまで考えて、シソウは自分のまだ凍傷で浅黒い肌を見る。そして追加で傷を受けた場合、感染症が怖いな、とそれほど危険な地域に行くべきではないと判断するのであった。出来るならギルドで比較的安全な依頼を受けて、怪我が治り次第西の森に向かおうと結論を出した。
シソウは水音を聞き、それから水面が揺れるのを感じた。そしてゆっくりと近づいてくる波面。キョウコはシソウの隣に腰を落ち着けると、肌が触れるほど近くまで寄った。瑞々しくも小さな体がシソウの肌に触れる。シソウは一度瞳を閉じて、どうするべきか思い悩んだ。
仲のいい兄妹のように扱うことは簡単である。適度な距離を保ちつつ、都合のいい時にだけ接触すればいいのだから。しかしそれが彼女のためになるのだろうか。本当に彼女が欲している物はもはや得ることも出来ないだろうし、自分がそれの代わりになるために全力を尽くすことが出来るだろうか。シソウは自分のその考えを、全うできないことを知っている。彼女が欲する生活はあまりにも変化がなく居心地の好いものであって、それはシソウにとって将来をひどく制限するものであるからだ。
彼女を嫌っているわけではないし、慕われるのは悪くない。しかし彼女の依存心を満たせるほど、欲求を押さえつけることなど出来ないだろう。いつか必ず来る未知への冒険に出かけることになれば、彼女はどう思うだろうか。
シソウは出来るだけ深くは関わらない方がいいのではないか、という気がしてくるのであった。そしてここまで近しい関係になってしまった以上、それが不可能であるということも理解していた。
だから、この同棲生活はシソウにとって重苦しく、悩ましいものであった。
風呂を上がって自室に戻ったシソウは、寝る前に訓練をしていた。大雪境の騎士たちがしていた盾の動きを、実際に盾を動かしながらトレースする。アルセイユで得た盾はシソウにとってあまりにも重く、彼らのように扱うのには一苦労であった。そこで面積を狭めて一部分だけを『複製』することで何とか扱えるようになったのだ。
とはいえ、刀を使う以上、常に盾を構えているわけにはいかない。そうなると複製するタイミングが重要になってくる。咄嗟に複製をすれば、敵に対して動揺を誘うことが出来るが、この巨大な盾を複製するということは、同時に視界が覆われるということでもある。それは敵と自分の間に駆け引きが生まれ、そこで何か抜きんでる策はないだろうか、と思案を巡らせた。
試しに、鎌を複製してみる。片手で盾を何とか押さえつけたまま、その影からそこにいるであろう敵を想定して横から一撃を加える。しかしあまりに盾が大きかったため、そこに到達する前に鎌の柄が盾に当たってしまった。
これでは使い物にならない、と当面は防御のためだけに使うことにした。それから次の斧を複製する。魔力を込めるとその質量は増大し、持っていることさえ辛くなる。ぎりぎりまで重量を増加させ、直線的に振るのではなく回転運動をさせることで何とか取り扱う。これは跳び上がってからの振り下ろしなどに使用できそうではあるが、外したときの隙が大きくそう多用出来るものではない。
シソウは諦めて、巨大な斧で素振りを始めた。魂を得て身体能力が強化されるということと純粋な肉体の能力が強化されるということは別であるようで、体を鍛えることは多少なりとも意味がある。この斧を扱うのであれば、自身の筋力を増大させるのが一番手っ取り早いだろう。
ゆっくりと何度か振るだけで、腕は根を上げる。シソウは限界まで続けてから、ベッドに横になった。そうしていると、ノックをしてからキョウコが入って来る。風呂上りで上気した頬は少し艶めかしい。
「あのね、シソウお兄ちゃん、今日も一緒に寝てくれる?」
「ああ。おいで」
シソウはずるずると関係を続けることへの抵抗を覚えつつも、彼女の願いを断ることは出来なかった。そして少女の吐息を近くで感じながら、彼女に聞こえないようにため息を吐くのであった。