第十一話 氷蜥蜴
大雪境の東の農園は、真っ白な雪で包まれたこの街で唯一、緑であった。周囲が雪で真っ白なのに対して、土の茶色から深緑の作物が生えているのは、明らかに異質である。そして少年少女たちがキョウコの指示のもと手入れをし、大雪境の兵士たちはその周りに防護柵を立てていた。
シソウはその様子を暫く眺めてから、東の森の中へと入っていった。彼は特別な農学の知識があるわけではない。むしろ経験を積んだキョウコに任せた方がいいと判断して、魔物の駆除に出向くことにしたのである。
凍えるような寒さに身を震わせながら、一歩一歩雪の上を進んでいく。これまでの精神的な疲労のせいで、何も考えずに魔物を狩ればいいのは楽であった。肉体は疲れがまだ残っているが、戦闘に支障をきたすほどではない。
やがて大量のコボルトが行進しているのが見えてきた。そのリーダーは彼らの先頭できーきーと喚いている。弱い魔物であるため放置してもそれほど問題はないのだが、ここまで繁殖されると植生に影響が出て来る可能性がある。
シソウは他に魔物がいないことを確認すると、武器も持たずに一気に飛び出した。靴に魔力を込めて、さらに『加速』する。彼我の間合いを一瞬にして詰め、間近になった瞬間に巨大な戦斧を『複製』した。
斧はコボルトの一団を丸ごと刈り取って、周囲は血肉が飛び散り凄惨な有様になっていた。重量のある斧は持っているだけでも機動力は落ち、そして満足に振り回すこともできない。しかし『複製』する直前までは無手であるため速度が落ちることは無く、ギリギリまで引き付ければ斧の短所は軽減することが出来る。少しやりすぎたような気もしたが、さっさと火をつけて死骸を燃やし次を探す。
昨日相当な量を狩ったせいか、魔物はなかなか見つからない。さらに深くまで足を踏み入れると、数多の魔物の気配を感じた。木陰からゆっくりと身を乗り出して、様子を窺うと、薄水色の蜥蜴の姿が目に入る。その数は百を超えるほどで、むやみやたらに飛び出すのは気が引けるほどだった。
そして通常の固体の十倍近い体積を持つ巨大な氷の蜥蜴の王が、彼らの中心にいた。その鱗は硝子細工のように精緻な幾何学模様が刻み込まれており、巨大な水晶のような眼球はぎょろぎょろと辺りを見回すように動いている。強靭でありながら金属のような硬さも感じられるその体は、そこらの武器では傷一つ付かないだろう。そして蜥蜴の王が吐息を吐くたびに、周囲は凍り付いていた。
蜥蜴の王が通った後の土地は、死を感じさせる寒々しいものに変わっていた。土地の特性を変えてしまうほど強力な魔力は、並の者に近づくことすら許さない、王者の風格とも言えるものだった。
そして一度息を大きく吸ったかと思うと、蜥蜴の軍団の先頭に立ち、力を誇示するかのように腹にため込んだそれを一気に吐き出した。その吹雪を浴びた木々は樹氷を形成し、彼らの前には氷の道が出来上がった。王の取り巻きは興奮してそれを褒め称えるかのように、ぎゃあぎゃあと喧しい叫び声を上げた。それから王はずんずんと歩み始めた。
彼らの向かう方向には大雪境がある。そして真っ先に衝突するのは、東の農園だ。シソウは強襲か撤退か暫し逡巡するが、失敗するリスク、魔法や無理押しする腕力もないため相性が悪いことを考慮すると、まずは連絡が先だと判断した。
音を立てない様に慎重に足元を確かめながら来た道を引き返す。見つかっては全てが泡となる緊張感と、遅ければ間に合わなくなってしまう焦燥感で、ほんのわずかの時間が永遠にも感じられた。
彼らが視界から見えなくなると、森の中をゆっくりと駆け出し、次第に速度を上げていく。それから街道に出ると、急加速して街まで全力で走り出した。鳴り響く心臓の音が、シソウに駆けろと発破をかける。雪を跳ね上げ、氷を踏み砕き、大雪境へと一散に向かった。
シソウが大雪境に付いたとき、街に変わった様子は何一つなかった。そのことに安堵すると、呑気に欠伸をしている兵士を確認して、シソウは必死の形相で声を張り上げた。
「氷蜥蜴のボスが現れた! 東の森からこっちに向かってる。王城に救援を呼んでくれ!」
それを聞いた兵士たちは寝耳に水、と目を丸くした。慌てて連絡を取り合う彼らに救援を任せて、シソウは農場にいる子供たちのところへと行く。魔物の襲撃を伝えると、彼らは蜘蛛の子を散らすように街の方へと逃げて始めた。
すっかり様相が変わって剣呑な雰囲気が漂う農場には、ただ一人残ったキョウコが呆然と畑を眺めていた。シソウは彼女の傍に行って声を掛けようとしたが、彼女に浮かんだ諦観を感じると、先ほどまでに何度か言ったはずの逃げろという言葉を言い淀んだ。
「……結局、だめなのかな」
「どうして?」
「だって、どんなに頑張っても、いっつもこうなっちゃうんだもん。やっぱり、魔物には勝てないよ」
「勝ってみせるさ。必ず勝つ。そしてこの畑には一歩も踏み入らせない。だから心配しないで」
シソウはしゃがんでキョウコの目をじっと見た。彼女はその言葉に、期待や安堵より、不安を抱いたようだった。シソウは何も言わずキョウコの頭をぐしゃぐしゃと何度か撫でて、ゆっくりと立ち上がった。
背中にキョウコの視線を感じながら、シソウは森へと向かう。踏み出した一歩は大きく力強い。それに合わせて靴に魔力を通すと、吹き飛ぶように森の中へと入っていった。
あれからの経過時間を考えると、魔物の集団が大雪境に到達するまでの時間はそう長くはない。途中でルートが変えられる可能性を考えると、直線上の索敵に掛けられる時間はほとんどないのであった。
次第に深くなっていく雪の中、もはや寒さも不安も感じない。シソウは魔物を見つけることだけに集中していた。すべきことは敵を見つけ、倒すことだけだと。
そしてほとんど移動する間もなく、魔物の叫び声が聞こえてきた。シソウはすぐさま勢いを殺して音を立てないようにし、奇襲に最適な位置を取る。
木々の無い空き地のような空間を囲む木々に隠れながら、シソウは息を潜めていた。敵が大雪境に真っ直ぐ進んでいるならば、必ずそこを通るはずだと確信して、しくじらない様に精神を落ち着かせる。
やがて遠慮のない足音と体を引きずるような擦れる音が聞こえてくる。奴だ。シソウは口の中が乾いていくのを感じた。そして氷蜥蜴の王が姿を現した。それを皮きりに、次々と空き地に魔物が流れ込んでくる。心臓がばくばくと早鐘を打ち、シソウを急き立てる。
――まだだ。
シソウは逸る気持ちを押さえつけ、機を窺う。その間に王はどんどんと進んでいき、空き地の中央を通り過ぎた。それから空き地に入って来る魔物が尽きて、それが後端であることが分かる。
無警戒に進んでいく王が再び木々が叢生する中へと入っていこうとした瞬間、シソウは足に力を込めた。飛び出すと同時に『加速』して、それから巨大な戦斧を『複製』する。その重量の分だけ速度は落ちるが、すぐさまシソウは体を捻って、斧を回転させながら投擲した。
投げつけられた斧は地面と水平に、魔物の群れに切り込んだ。それから後端の魔物を数体粉砕して、勢いが落ちると魔力が切れて消滅した。シソウは投げた反動で勢いがなくなっているが、再び『加速』して斧を投擲する。
二本目の斧が蜥蜴を打ち砕いたとき、ようやく群れはシソウの存在に気が付いた。そして一斉にシソウ目がけて、短い手足をばたつかせながら向かっていった。
シソウはそれを確認すると、後退して森の中に入る。そして姿勢を低くして魔物から見えないようにし、空き地の周囲を回るようにして移動する。魔物の音から、シソウが先ほどまでいた位置に集まりつつあることを確認すると、シソウは森を飛び出した。
視界が開けると、魔物の群れの横っ腹が見えた。シソウはすぐさま、列の中央目がけて、斧を投擲する。それはシソウの狙い通りに飛んでいき、列を真っ二つに分断した。単純な知能しか持たない蜥蜴はそれだけで恐慌状態に陥った。
シソウはそれを好機と見て、『加速』して魔物の群れに飛び込んだ。集団の中に入ると、もはやその姿は外から見つけるのは難しい。シソウは力任せに斧を振るい、氷蜥蜴を粉砕する。ただでさえ知能が低いものが混乱すれば、あとは有象無象に過ぎない。
近寄る魔物を片っ端から切り倒し、斧を振るうたびに『加速』する分、魔力は徐々に減っていく。暫くして魔物の集団が冷静さを取り戻し始めると、シソウに焦りが生じ始めた。集団で襲われたら、広域を対象とする魔法が使えないシソウは不利になるからだ。
シソウはその不安を振り払う様に大きく斧を振りかぶった。