第十話 依存と責任
シソウは一度城に行って兵士に言付けを頼むと、アリスとテレサに会うことなくキョウコの屋敷に戻った。今の自分はアルセイユのためではなく、大雪境のために動いている。それは一国の使者の護衛として相応しい行動ではない。その罪悪感から、二人に会うことが出来なかった。
日は既に落ちて、後は寝るだけである。シソウは屋敷に戻ると、ようやく待ちに待った風呂に入ることにした。衣服や防具は入っている間に洗うことにしている。しかしそれも億劫になって、石鹸水の中に投げ入れて放置した。
体は温まってきているはずなのに、心は寒々としていた。冷静になって考えてみると、大雪境に来てからしたことは、シソウの能力を露見しやすくすることで、そして必要に迫られたことでもない。合理的な判断を下すのであれば、真っ先に切られるはずの行動である。
しかし最近、シソウは激情に駆られて行動することが多くなっていた。自分の行動に戸惑いつつも、どこかでそれを良しとする自分がいる。そんな感情は、ますます不安を増大させるのであった。見知らぬ異世界で、自分は取り返しのつかないことをしてしまうのではないか、と。
風呂から上がると、防具や衣服を適当に洗い流す。替えは持ってきてないので、絞った後に火で炙って生乾きのまま身に着ける。若干の不快感は残るが、血まみれよりはましである。
それからキョウコが用意してくれた個室に行き、机に腰かけながら今日の戦利品である熊の鉤爪を矯めつ眇めつ眺めた。この部屋は以前、誰かの私室だったようで私物が多く残っている。人の部屋を漁る趣味はないので放置していたが、机の前にある冊子にはつい目が行ってしまう。それらは日記のようで、番号が振られたものが何冊もあった。
シソウがそれに気を取られていると、こんこん、とドアをノックする音が聞こえた。シソウが返事をすると遠慮がちにキョウコが入ってきた。
「どうしたの? 眠れない?」
「うん。……この部屋、お父さんの部屋だったの」
「……俺が使っても良かったの?」
「シソウお兄ちゃんは、お父さんの夢を実現してくれそうだから」
そんなことは聞いていなかったのでキョウコに尋ねると、彼女の父は貧困に喘ぐ民のために品種改良などを繰り返し、食糧難を解消しようとしていたそうだ。手段や思想は異なるが、その目的は大体一致している。
キョウコは机の上の冊子を手に取ると、そのページを捲った。そこに書かれていたのは、一生を掛けて品種改良に臨んだ男の生き様であった。シソウは軽い気持ちで農場に手を出したことを後悔していた。自分の行いは彼に対する冒涜でしかない。もし彼が生きていればキョウコを助けたことは感謝するかもしれない。しかし自分の力ではなく魔法道具で作物を育てた行動を心から歓迎するとは思えなかった。
しかしキョウコはそんなシソウの感情に気付くことなどなく、寄り掛かってきた。シソウは戸惑うが、その小さな手がぎゅっと握られているのを見て、何かを言うのは止めた。
「私が眠れないとき、お父さんがよく一緒に寝てくれたの」
彼女が求めるのはシソウではなく、今は亡き父親である。シソウはその代わりでしかない。そんなことは分かっていたが、それでも頑なに突き放すことは出来なかった。シソウはキョウコの頭を撫でて、一緒にベッドに横になった。
暫くして、彼女は寝息を立て始めた。縋られるその責任も重さも分かっている。だからシソウは頭を抱えずにはいられなかった。
翌朝、シソウは王城を訪れた。今は賓客として招かれているせいか、食料についての話し合いがしたいと述べると、貴族たちだけではなくセツナが直々に会いに来た。もしかすると、以前米を上げたことへの恩を感じてのことなのかもしれない。他数人の貴族たちも同席しており、シソウは少しばかり緊張していた。
「して、用件は?」
「農園の改良に成功し、食料供給が可能になりました。しかし、それを安価で販売してしまうと他の農民に少なからぬ被害が出てしまいます」
「うむ、聞いておる。何でも一夜にして作物が実ったそうではないか」
「ええ。しかし今の私はアルセイユの者です。大雪境の市場に進出するのに反感もあるでしょう。そこで国の方で買い付けを行って頂きたいのです。また、魔物の対策も講じていただけるとありがたく存じます」
既にあの異常な成長速度は噂になっていたらしい。そして貴族たちの様子からは経済面の侵略を想定している者もいたようだ。そのため意外な申し出に困惑する者も多かった。シソウの突飛な行動を他のものより見てきているセツナは、戸惑うことなく続けた。
「それで主に何の利がある?」
「あくまで主導は大雪境という形で、アルセイユの協力を受けたとだけ言っていただければ、好感を持ちやすいでしょう。両国にとって良い関係を築いていきたいのです。また、あの農場主はキョウコという大雪境の者です。……私はあの子に期待させてしまった以上、それに応えるための努力をする責任があります。それを果たしたいのです」
「よかろう。こちらとしては何の損もない、願ったりじゃ」
一通り話が纏まると、シソウは安堵の息を吐いた。そこに人の好さそうな40代の男性がやってきて、愛想のいい笑顔で握手を求めてきた。シソウはその手を取って礼をする。彼は食糧について担当している貴族で、相当頭を悩ませていたそうだ。ただの冒険者のご機嫌取りをするなんて余程大雪境は苦しいのだろうか、とシソウは見当違いのことを考えていた。
それから貴族たちが今後のことを話し合っている間、専門外のシソウはただその様子を眺めていた。それを見かねてか、セツナがやってくる。
「のう、シソウ」
「何でしょうか?」
「主の目的はなんじゃ? 主が大雪境に来てから、此方が一方的に得をするばかりじゃ」
「正直、自分でも分かりません。ただ……」
シソウはそこで一度、言葉を切った。そして答えを待つセツナの顔を真っ直ぐに見て、微笑んだ。
「セツナ様の笑顔が見られたら、それだけで満足ですよ」
そういうシソウに、セツナは思わず顔を赤らめた。セツナに対して、本気でそう思って行動した人は今までいなかっただろう。
「これ、人前でそんなことを言うでない」
「申し訳ありません」
シソウは自分の行動が間違っていたとしても、後悔だけはしたくないと思った。そしてもし悲惨な結末を迎えたとしても、彼女の笑顔があれば自分はきっと後悔はしないだろうと。
それから城を出ようとするとき、偶然アリスとテレサに出くわした。シソウは何と言えばいいのか戸惑ってしまったが、アリスはすぐさま駆け寄ってきた。
「シソウさん、すっかり噂になってますよ」
「え? 何のこと?」
「農園です。兵士さんたちも期待してるそうです」
アリスは怪我をした兵士たちから話を聞いていたらしい。その中には、シソウと話したことがあるものもいるようだ。
「シソウ様はいつの間にか大事を成し遂げてしまいますね。私は王としてではなく、テレサ個人として、いつも応援していますよ」
テレサはシソウに微笑んだ。シソウは蟠りが消えていくのを感じていた。そしていつまでたっても、彼女に支えられているということも。功を焦ったことやくだらない劣等感を抱いたことを反省しながら、しっかりとテレサを見た。彼女は口を尖らせて、続けた。
「ですが、少しくらい相談してほしかったですね」
「そうですよ、仲間外れみたいで嫌です」
シソウはこれからは真っ直ぐに向き合っていこうと決心する。逃げることなく、嫌なことも嬉しいことも、受け入れようと。そしてこれからのことを二人に話した。
「俺は、大雪境の寒冷化の原因となっている魔物を駆除したいと思っています。たとえ何かをしたところで、根源を潰さない限り何も変わりません」
「シソウ様なら、きっと出来ますよ」
「無理しちゃダメですよ!」
「アリスちゃん、ありがとう。テレサさん、これからも見守っていただけると嬉しいです」
それから三人は、それぞれの役目と果たすべく城を出た。