第七話 熊
切れたミサンガは風に乗ってひらひらと飛んでいく。シソウは魔物に出来た僅かな隙を見逃さず、駆け出した。熊の間近でシソウは刀を振り抜きながら大きく横っ飛びに飛ぶ。軽く頭部を掠めるがほとんど切れることは無く、熊の視界から消えると同時に懐に潜り込む。胴体を真っ二つに切り裂こうとするシソウに対し、熊は二本の脚で立ち上がり、シソウを威嚇しながら前足を滅多矢鱈に振り回す。
シソウは近づくのを諦めて刀を消し、『複製』した槍で喉元を突き刺すが、浅く突き刺さるとそれ以上は筋肉で通らない。すぐさま目へと狙いを変えるが、熊は迎撃態勢に入っている。シソウは槍を消して大きな盾を『複製』する。片手で持つには大きすぎるそれを両手で持って構えながら、じりじりと間合いを詰めていく。硬い皮膚を持つ魔物に有効な武器でシソウが扱えるものは一つしかなかった。
熊は警戒を止めてシソウへと突っ込んでくる。シソウはその突進を盾で受け流すが、その反動で大きく体勢を崩してしまうため反撃に移れずにいた。足元がおぼつかない状況で、すぐさま反応するのはひどく難しかった。
それから立て続けに何度も力任せに振るわれる腕を受け止めるが、度々ミサンガが破断していく。猛攻の中でなくなったミサンガを『複製』する余裕もなく、魔力も次第に減り始めた。シソウは撤退も考慮しながら、しかし最後まで機を窺っていた。どこかに勝機は見いだせるはずだと。
やがて熊はいつまでたっても捉えることのできないシソウに我慢できなくなったのか、体全体で圧し掛かるようにして飛びついた。その腕は顔の両側にあり、敵を逃さず捉えようとしている。そして腕に捕まればその間にある剥き出しの牙の餌食になるだろう。
シソウは盾を前面に押し出すとそこで手放した。熊の視界が盾に覆われ、左右は腕で塞がれている。シソウを見失って生まれた熊の隙を突いて、射線上から飛び退く。そして熊が盾を思い切り掴んだ瞬間、シソウの眼前には無防備な頭部があった。すぐさま残った魔力で金剛石の刀を『複製』し、一気に振り下ろす。
刃は柔らかいものでも切るかのようにすっと切り込み、顎の下まで通り抜けた。血が吹き出し、首が落ちる。多大な魔力が流れ込んでい来るのを感じてシソウは勝利を確信し、それから一息つく。流れ出る血を見て、血抜きをしなければと思い立つが、しかしそういった知識はほとんどないのでとりあえず逆さにしておいた。
それから巨大なリアカーを『複製』して熊を投げ入れ、綺麗な魔物の死骸を片っ端から投げ入れていく。どうしようもないほど損傷している魔物は一か所に集めてライターで火をつけた。それが鎮火して火事にならないことを確認してから、リアカーを引き始めた。血の匂いで魔物が集まる前に、さっさと街道に出たかった。大量の死骸を抱えたまま戦闘する気にはなれなかったのである。
リアカーを引いていると狭い木々の間を通り抜けるのはなかなか難しく、そして重量があるリアカーは雪の中に深くめり込んでいる。もはや車輪の意味はなく、そりと大した変わらない状態になっているが、シソウの力でも難なく運ぶことができた。シソウはこの身体能力で日本に帰ったなら、もはや化け物扱いしかされないだろうなあなどと考えながら、暫く歩いていくと街道に出た。
ようやく深い雪から解放されたシソウは、街道を駆け出した。大量に浴びた血が固まってきて非常に不快なのであった。さっさとあったかい風呂にでも入りたい、と街へと向かう。やがて門が見えてくるとシソウは軽く手を振った。しかし兵士たちは何かを話し合ってから、誰かを呼びに行ったようだ。
それから近づいて行くと止まるように指示が出た。シソウは両手を上げて敵意がないことを表すと、彼らは魔物を置いてこちらに来るようにと言う。シソウは言われるままにするが、首を傾げた。その不思議そうにしている様子を見て、温厚そうなおっさんといった風の兵士が説明をしてくれた。
魔物の大雪境国内への持ち込みは禁じてある。理由は国民の恐怖を煽る結果になることや、疫病の発生の防止、生きた魔物が紛れ込むのを招きかねないということなどだそうだ。
「おい、氷蜥蜴何か持ってきてどうすんだ? こんなもん何に使うんだよ」
若い兵士が不信感を持ってシソウを見る。どうやら全身を氷で出来たような蜥蜴の魔物は使い道がないらしい。
「あの……大雪境には一昨日来たばかりでして、先日兵士の方々が魔物を捌いているのを見て何かに使えるのかと思ったのですが、何分そういった知識がないため街で見てもらうのが良いかと思いまして」
「ああ、他国の冒険者か。使えるって言っても毛皮や肉くらいしか使えないものばかりさ。それも食糧難だから食うくらいのもので、旨いものなんてそうそうない……って熊までいるのかよ!」
シソウが持ってきた魔物の山を退かしていくうちに、熊の姿が現れて兵士が驚きの声を上げた。どうやら大雪境に住んでいる兵士でもあまり見たことがないらしい。確かにレベル40を超える魔物が何度も街に来るようでは、国の存続も危うい。
兵士たちは魔物の処理に慣れているようで、的確に処理していく。手数料などが掛かるのだろうかと疑問に思ったが、どうやら彼らは自分の仕事が減った分手伝ってくれているようだ。
たくさんの魔物があっと言う間に解体されて、肉と毛皮、それから内臓になっていく。使えない魔物はまとめて魔法で焼却するらしい。魔物の中でも熊は丁寧に処理されており、大きな毛皮と肉が取れたようだ。鉤爪は何かに使えるかと思って貰っておいた。熊の胆嚢は強壮の薬になると聞いているが、魔物でもそうなのだろうか。
シソウが先ほどから答えてくれるおっさんの兵士に尋ねると、魔物のものは更に効果が高いらしく、高価で取引されると答えてくれた。捨ててこなくて良かったと思いながら、肉が積み上げられていくリアカーを眺めた。ようやくすべての解体が終わると、兵士たちは戻っていく。
「あの……これ、どうすれば?」
「街で売るなりギルドで買い取ってもらうなり、好きにしろ。肉なら今はどこも品薄だから買い取ってもらえるさ」
それからシソウはリアカーを引いて兵士たちに続いて街の中に入る。彼らの雑談を聞いていると、肉に興味を示しているようだ。最近では彼ら末端の兵士たちに回ってくる食料は少なく、家族を満足に養うのも難しくなっているらしい。城内の兵士たちの状況よりさらに悪く、国の危機とも言えるほどである。
「じゃあこの肉上げますよ。ご家族で召し上がってください」
「お前それまじ!? いい奴だなお前!」
調子のいい若い兵士がシソウの背中をばんばんと叩く。シソウはこのようなコミュニケーションに慣れていないため、どう反応していいか分からなかった。しかし悪い気はしなかった。
それから兵舎に行くと早速、鍋を御馳走になった。魔物の肉は若干硬いものの、程よい弾力と深みがあって、独特の香りが食欲をそそる。兵士たちは自給自足に近い生活をしているせいか、料理の腕も立つ。兵士たちはこれで酒があれば最高なんだけどなあ、などと言いながらてんやわんやの大騒ぎになった。もちろん、この国に酒を造るほど米に余裕はない。
研究室で飲み会くらいはあったが、それ以外ではほとんど参加しなかったシソウはどうすればいいか分からなかった。しかし大騒ぎの中にいると、自分まで気が大きくなったように感じた。
食事を終えると兵士たちは再び任務に戻っていき、それに入れ替わるように別の兵士たちが入ってきて、料理に舌鼓を打つ。シソウもそろそろ風呂に入るために兵舎を出た。熊の毛皮や胆嚢などは全て処理して貰えるそうで、至れり尽くせりだなあなどと思いながら街に出た。