第一話 兆し
それから数か月、アルセイユ国内では、がれきの除去が盛んに行われていた。兵士たちは皆熱心に働き、復興の兆しを見せている。アリスはあれから野外病院で回復魔法を役立てていた。魔力は魂を得ることで強化されていくが、魔法を使うことで誤差程度ながら自身の魂が強化され、魔力も強化されるらしい。そのためかどうかは不明だが、アリスの回復魔法の技術は相当向上していた。
また、テレサはレライアとその手の者であった貴族たちを国賊として処分した。罪状は魔物の国内誘致である。そしてそれ以外の者たちには恩赦を与えた。これからは改心して民のために尽くすように、と。本来であれば彼らが大人しく改心するような人物ではない。しかしクライツを褒め称える騎士たちによって、既にオーガ討伐の噂話は国中に広がっていた。元騎士団長はオーガの王と王妃を容易く屠り、その上押し寄せてくるオークたちの王も一瞬で打ち倒した、と。
ボスと呼ばれる魔物たちは皆少なくともレベル50程度はあり、兵士はおろか並の騎士では歯が立たない。それを赤子の手を捻るように倒すのだから、いかに化け物じみていることか。そして貴族たちはかつてクライツに命令を出したことがある者たちである。自ら彼を用いたからこそ、その異常なまでの強さは理解していた。
テレサは貴族たちに対して特別な何かをしたということはない。ただ、「悪いことをしたり私の知り合いに手を出したりしたら、騎士団長が嬲り殺しに行きますよ」と笑顔で言っただけである。それだけで貴族たちはすっかり震えあがり、まっとうに働くようになったのだった。
クライツは元々政治に関わろうとしたがる人間ではない。しかし今はテレサに従って多少政治に関わることを厭わなかった。そうすることが最善であったからである。まだ情勢は不安定で、不安の種は残っている。そしてテレサに使われるのであれば、別に嫌だということもなかった。
そんなこともあって、アルセイユは混迷から落ち着き始めていた。しかし一度弱体化した国は他国の脅威に晒されることになる。テレサは区画整理を済ませると、対外政策に頭を悩ませていた。そうしていることで特に名案が浮かぶわけでもなく、一度執務室の席を立って、窓の外を眺めた。貴族たちの屋敷は綺麗だが、その区画の向こうにはがれきの山が広がっている。テレサの住んでいた貧民街など、もはや跡形もなくなっていた。
防衛のための戦力は全く減ってはいないのだが、国民の生活の困窮は国力の低下を招く。何にせよ、急いで行動しなければいけないのだった。そんな彼女の目は、城下町の一点に止まった。一軒の掘立小屋の前に行列が出来ている。そこは活気で満ちているように見えた。テレサは腕に付けているミサンガをそっと撫でてから、再び執務に戻った。
アルセイユの商店街の大通り、つまり一番良い立地の所に長蛇の列が出来ていた。彼らの目的の建物は、いかにも即席で作ったようなもので、屋台と言っても差し支えないようなものだった。しかし壁がない分、却って鼻腔を擽る香りが漂ってくる。それにつられるように、人々はその中へと吸い込まれていくのだった。
一人の男性が中に入ると、まだ若い二十才ほどの女性の元気のいい声が聞こえてくる。それは聞いている方も元気になれそうな声だった。
「いらっしゃいませー! おひとり様ですか?」
男性は席に着くと早速注文を済ませ、銀貨一枚を支払った。ウェイトレスの女性はお辞儀をしてカウンターへと向かっていった。それから料理を作っている少年に注文を告げた。少年は相槌を打って、麺を鍋の中に投げ入れた。
シソウが復興の炊き出しとしてラーメンを振る舞ったことは好評を博し、平時も食べたいという強い要望があった。そこでシソウは一般の客に向けた店を作ることにしたのだった。麺はあの時と変わらないが、具材は多少豊かになっており、スープは味噌味や塩味が追加されている。
この美味しさの秘訣を探ろうとする熱心な者もいるようだが、未だに到達してはいないようだ。それも当然だろう、作っているシソウ本人でさえ、味の秘密を知らないのだから。そしてメーカーに問い合わせることも出来ないため、恐らくは一生知り得ないだろう。
しかしシソウは別にこの料理の調理法を秘匿したいわけではなく、むしろ解明してくれた方がありがたいくらいである。料理を『複製』するコストは、銀貨そのものを複製するより遥かに高い。しかしこれならば金を持っていても不自然ではなく、そして貨幣そのものの数が増えて貨幣価値が下がる、ということもない。したがって、街の復興にもつながるだろう、と当面の間は店を続けることにしたのだった。
また、この世界では累進課税制度は存在しない。なぜなら、格差をなくそうとする考えがそもそも存在しないからだ。貴族たちは相応の実力を身に着けることで利権を守り、平民は成り上がることで上の立場になる。どちらにしても、実力が差を生み出すという考えは、仲良しこよしではやっていけないこの世界ではその方が妥当なのかもしれない。そのため税は土地と住民にのみ掛かっていた。したがって収支を勘ぐられることもない。
「料理長! そろそろ麺がなくなります!」
「ああ、じゃあここは任せる」
アルセイユに店を構えて三十年になる大ベテランの料理人が、シソウに告げた。シソウは料理長どころか、そもそも実家住まいであったため料理すらまともに出来ない方の人間であったが、気が付けば料理長の称号を得ていた。これはシソウがうっかりこちらの世界にはないシェフという単語を口走ってしまったことに起因する。明らかに肩書に見合っていないよなあ、と思いながら、シソウはカウンターを出て、店の奥に向かっていった。
倉庫として使われている部屋には、いくつかの四角い箱がある。シソウは周囲に誰もいないことを確認してからその中に麺を『複製』した。他の店員には空間魔法が使えるということにしてあるので見られて困るわけでもないのだが、出来るだけ人前では使いたくはない。また、技術は盗むものだという考えがこの世界の料理人にも共通だったため、うるさく聞かれるようなこともなく、むしろ尊敬のまなざしで料理長とさえ呼ばれている。
素材の補充を終えると、シソウは店を任せて街に出た。そもそも麺とスープさえあれば、シソウはあの店に不要なのである。働いているのは半分くらい道楽に過ぎない。
街では人々が損傷のひどくない自宅を修理していたり、兵士たちががれきを撤去し木材を運んだりしている。商業地区を抜けて住宅街に足を踏み入れると、そこでは無数の男性たちが巨大な建物を建造している。彼らは兵士ではなく、金で雇われている大工であった。
「お、料理長! そろそろ一階が出来上がりますぜ!」
筋骨逞しい男性はシソウを見つけると、経過を報告してくる。シソウは彼らにたまに料理を振る舞っており、彼らの中には店に来る者もいたので、いつしかここでもそう呼ばれるようになっていた。
「うん、いい調子じゃないか。この調子で頑張ってくれ」
男たちの士気は非常に高い。それはこの事業がこの国で初めてのものだったからだ。もしかすると、この世界全てでもそうかもしれない。シソウはこの世界の有様を見かねて、孤児院を作ることにしたのだった。その費用には店の利益を当てている。また、各種税金はテレサの計らいによって免除されていた。
シソウが建物の隣にある仮設の住宅に入ると、所狭しと少年少女がいた。彼らはシソウを見つけるとすぐに駆けよってきた。シソウはその頭を撫でてやると、今日あったことなど、他愛もない話をしてやるのだった。それから飯をねだる子供たちにラーメンを作り、建物を出た。
それから街の外の方、貧民街があったところへと向かっていく。建物は撤去され、新しく建てられているものは前よりもずっと立派である。公共事業などによりこの一帯も活気で溢れていた。
そして仮設のテントを見つけると、シソウはその中を覗いていく。中は怪我人が横たわっているが、既に重傷者はおらず、完治するのを待つものたちである。何度か覗いていくと、やがて目的の人物を見つけた。
中にいた警備兵は敬礼してすぐにテントの外に出た。シソウの目の前には、机に突っ伏して心地好さそうに居眠りしている少女の姿があった。恐らく魔力を使用したことで疲労したのだろう。
シソウは暫くその可愛らしい寝顔を眺めていた。アリスは目が覚めると、慌てて居住まいを直した。
「し、しししシソウさん! 来てたなら言ってください! ……いつからいたんですか」
「起こしたら悪いかなって。確か一時間前くらいかな」
「そんなに何してたんですか!」
シソウは慌てるアリスを見て、幸せを感じていた。ここ最近アリスは忙しそうだったので、時間を取らせるのも悪い、とあまり会いに来ないようにしていたのである。久しぶりに見る彼女はやはり愛らしかった。
「いやほら、俺は暇だからさ」
「シソウさん、お店も孤児院もあるじゃないですか」
「どっちもお飾りだよ。俺がいなくても成り立つし」
シソウにしては耐え切れないほど彼女に会いに来ることは少なかったのだが、それでもこうして話していると、今までと変わらずに話すことが出来た。テレサは城に、アリスは病院に。それぞれが役目を全うしている中、シソウは特に何も出来ていないことに苛立ちを覚えつつあった。
このようなアルセイユの状況で、民を無視してひたすら剣技を磨く気分にはなれなかったし、かといって自分が何か大きなことを出来る訳ではない。そこで食料供給の役割だけでも、と店を構えたのだが、どうにも物足りない日々であった。
「アリスちゃんはこれからどうするの? 病院に勤める?」
「それもいいですけど……私はもっとこの世界のことを知りたいです。そしてどうすれば役に立てるのか、考えていこうと思います」
アリスは真剣な眼差しでシソウを見る。シソウは彼女が随分と遠くなってしまったような錯覚を覚えた。
「……そのときは、シソウさんも一緒に来てくれますか?」
アリスが不安そうに尋ねた。その問いに対するシソウの答えは、彼女と一緒に世界を見ると言ったあの日に決まっていた。シソウは笑顔で答えた。
「うん。一緒に行こう」