第三十二話 セレスティア
宍粟は全身を柔らかく抱きしめられているような心地好い微睡みの中にあった。その体は気怠く、いつまでもそうして甘えていたいとさえ思う。しかしすぐに先の経過を思い出して跳ね起きた。
安宿の硬いベッドと違ってクッションの利いたそれは衝撃で揺れて、寝起きの宍粟は気持ち悪くなった。そして自分がベッドの上にいることを確認すると、慌てて部屋を見回した。外は既に日が高くなっており、少なくとも数時間は経過していることが窺える。
ようやく落ち着いてくると、ベッドからゆっくりと降りて、部屋を出る前に自分の格好を確認する。少しよれてはいるが変わったところはない。辺りの様子も変わったところはなく、誰かが部屋に入ってきたということはないのだろう。
金属で装飾をあしらった扉に手を掛けて開けると、すぐに見張りの兵士が気が付いた。宍粟は小さく頭を下げて通り過ぎようとする。彼はすっかり恐縮しており、何を言えばいいのかも分からなかったのだ。しかしそれも無理もないことである。なぜならただでさえ人付き合いが苦手で社交界の経験もない彼が、このような場にいること自体が通常は有り得ないことなののだから。
今までは、テレサと一緒に居たため守らなければならないという昂揚感の中にあったり、王女のためにやらなければいけないという明確な目的もあったため、萎縮している暇はなかったのだが、自分の役割を終えた今、一人でこの王城の中にいるということは途方もなく心細く思われた。
「よう、お目覚めか?」
先ほど宍粟を外へと連れて行ってくれた騎士が屈託のない笑みで尋ねた。宍粟は彼のおかげで薬を『複製』することが出来たのだから、恩人に当たるだろう。何しろ、我が儘を聞いてもらった上に、近衛兵まで連れ出してもらったのだから。彼は今こうして見張り何かをしているが、本来であればもっと重要な任務に就いていていいはずだ。それなのに文句一つ言わず、宍粟に付き合ってくれるというのは、人間が出来ていると言うしかない。
「はい。先ほどはありがとうございました」
「気にすんな。王を助けるのが俺たちの役目だ。あの王様が困った素振りを見せるなんて滅多にないんだぜ」
宍粟はあまり想像が付かなかった。彼が見てきた王の姿は、どう見ても娘を心配する一介の父親の姿だったからだ。しかし話を聞いていると、王としての姿は騎士たちからも好かれる立派な姿なのだと思えた。
「ま、セレスティア様は王様の大事な愛娘だからな。何を捨ててでも助けようとするさ」
宍粟はその気持ちは痛いほど分かった。彼もアリスやテレサを助けるためなら恥も外聞も気にせず何でもするだろう。もし王が自国と彼女を天秤に掛けなければいけないときが来たら、彼はどうするのだろうか。王としての立場と、父親としての愛、どちらを選んでも辛い道になるだろう。
宍粟はそこでテレサのことを思い出した。彼女はアリスと国を天秤に掛けて、そしてきっぱりとアリスを選んだ。もしかすると悔恨もあるのかもしれない。しかし彼女は幸せそうに見えた。
漠然と、自分のなすべきことが見えたような気がした。セレスティアの容体は安定していて今は眠りに就いているということだったので、テレサの個室へと向かうことにした。ほんの少しの時間しか離れていた時間はないのだが、城に来てからの緊張もあって、妙に恋しかった。
個室をノックすると、アリスの元気な声が返ってきた。宍粟はゆっくりと扉を開けて中に入る。個室の中は宍粟が使っているところと変わらず、特大のベッドと机椅子、それから調度品が置かれていた。二人はベッドに腰掛けていたが、宍粟を見るとアリスは駆け寄ってきた。
「シソウさん! 大丈夫ですか!」
「何ともないよ。ありがとう」
宍粟はアリスの頭を撫でながらテレサを見る。彼女は宍粟の方を見て、良かったですね、と微笑んだ。宍粟は彼女達のためにも迂闊なことはしてはいけないな、と戒める。それからベッドに腰掛けて、アリスの話を聞いた。
彼女は初めて城の中で騎士、侍女を見て興奮したようで、あれから窓の外を行き交う人々の姿を見ていたらしい。よくよく考えれば、憧れるまでもなく本来はそういう生活をするはずだったのだ。宍粟は彼女が自分とこうしていてもいいのだろうか、という疑念を抱いた。やがてアリスの話はセレスティアの話に移っていった。美しい姫、というのに憧れるのは幼い女の子であれば誰しもそうだろう。
「お姫様、綺麗でしたね!」
「とってもね。でもアリスちゃんも綺麗だよ」
「え、その、あの……シソウさんっ! からかわないでください」
宍粟はいつでも本気で言っているのだが、最近はそういうことを言い過ぎたせいかあまり本気にしてもらえないでいる。事実、アリスの金色の髪は芸術品のように見るものを惹きつける美しさがあるし、幼いものの端整な顔は気品を感じさせ、大きな緑の瞳は宝石のように輝いている。彼女がこの城の姫だと言われても、知らない人であれば信じてしまうだろう。宍粟はいつしかアリスに城を上げられるようになりたいと願うようになっていた。
日が沈み始めた頃、ノックする音が聞こえた。テレサが返事をすると、騎士が礼をして入ってきた。その後ろには何人か侍女が付いてきており、どうやら宍粟が一日三食、薬も三回と言ったことについて相談に来たらしい。
この世界は貴族でも一日二食と間食という形を取っている者が多い。用いた抗生物質は血中濃度を一定に保つために一定間隔で飲むはずだったので、特に食事の時間の決まりはない。睡眠時間が長ければ間隔も変わるので、食事に合わせて六時間程度で目安に飲むように伝えた。
それからテレサと宍粟はセレスティアの元へと案内された。目的はテレサが回復魔法を掛けるだけなので、宍粟にとって最早やることは無く行く必要は無かったのだが、何故か呼ばれたので大人しく付いて行くことにした。
部屋には咳をしているセレスティアの姿があった。急に良くなるということは当然無いが、もはや死に瀕しているというほどの状況ではない。彼女は宍粟たちの方を見て小さく頭を下げた。宍粟はどういう対応をすればいいのか全くわからなかったので、とりあえず頭を下げてから中に入った。
とりあえず宍粟は熱を見て体に異変が無いかを訪ねると、彼女は問題ない旨を伝えた。彼女は物静かであったが、テレサやアリスとはまた違う気品を感じさせる。触れると壊れてしまいそうな、儚い美しさがあった。
テレサが回復魔法を掛けている間、宍粟はその隣で待機していた。宍粟はセレスティアの様子を眺めており、セレスティアも宍粟の格好を奇妙に思ったのか矯めつ眇めつ見ていた。その結果、二人は見つめ合っているような形になってしまっていた。
宍粟は困惑していたものの、今更視線を外すと不自然なので何も動じていない様を装った。そんな様子を見て何を思ったか、セレスティアは小さくお願いをした。
「シソウ様のお話をお聞かせください」
宍粟は一国のお姫様に聞かせるような大層な話など持ち合わせてはいない。どうしたものかと思い悩んだが、アリスに聞かせるような話でいいか、と語り始めた。初めはアリスやテレサと冒険者をしていたこと、それから旅の中で多くの出会いがあったことなどを話した。彼女はあまり城の外に出ることは無いようで、それを楽しそうに聞いていた。お姫様といっても年相応の女の子なのだと、そう思った。
それから宍粟はポケットから紙を取り出したように見せ掛けた。というのも、今しがた手を突っ込んで『複製』したからである。その紙は四角くて、片側には色が付いている。宍粟はそれをセレスティアに見せるように何度かひらひらと裏返して、それから折り始めた。彼女の様子を見ていると、やはり見たことがなかったようで、興味深そうにしていた。侍女たちまでもが興味を持ったのは予想外であったけれど。
何度か紙を折り返していくうちに、小さな鶴が出来上がった。そこで宍粟はこの世界に鶴がいるかどうか分かっていない、ということに気が付いた。しかし彼は大同小異なことに無頓着であったので、知らなければ何かの鳥の別名ということにでもしておけばいい、と考えた。
「さて、鶴が出来ました。これが私の故郷の文化で折り紙と申します」
「まあ、素敵。このような文化が発達するなんて、さぞ優美なところなのでしょうね」
彼女は紙の鳥を持って楽しそうにしているので、宍粟は技術的に問題ない話題を選んで、日本の話を続けた。彼女はそれを聞いて、まだ見ぬ世界へと思いを馳せていた。それはアリスが城の生活や見知らぬ国に興味を抱いているのを連想させた。