第十八話 夜明け
宍粟はテレサの手当てを受けながら、焚火に当たっている。その隣には、鉄の槍が置かれていた。その先には狼の頭が突き刺さったままになっている。ルナブルクに近くなってきたところで、街道においてこのような強力な魔物に遭遇するということは通常では滅多に起こることは無い。そこでルナブルクのギルドに報告するために、倒した魔物の死骸を持っていくことにしたのである。
そして槍は一時的に『複製』するつもりだったのだが、咄嗟のことでうまくいかなかったのである。その反省を踏まえて、今後は武器一つでも何とか出来るような力を身に着けたいと思っていた。とはいえ、魔法が使えないため魔力の使い道は『複製』しかない。
「テレサさん、空間魔法って何ですか?」
「あら、ご存じなかったのですか。普通の魔法とは異なって、物理現象を捻じ曲げる魔法ですよ」
「他の魔法も十分捻じ曲げていると思うのですが」
「そうですか? 全て自然から生まれていると思いますけれど」
どうにも魔法が当たり前になっているこの世界の常識と、宍粟の常識は異なる。魔法があるという点を除けば、エネルギー保存則も働くし万有引力だってある。物理法則も物理定数は異なっているものの、大体のところは当てはめることが出来た。
「それで空間魔法についてでしたね。ものをどこか別の空間に仕舞ったり、出したりできるそうです。使い手はほとんどいないそうで、出来ても財布を仕舞っておくなど、日常的な魔法としての用法くらいしかないそうです」
「へえ。確かに盗難の被害はなさそうだし、便利ですね。でも俺の能力とは違いますよね」
「そうですね。シソウ様のような能力は聞いたことがありません」
「もしかすると俺の生まれが違うからかもしれませんね、憶測ですけど」
「シソウ様の世界はどんな世界でしたか? きっと平和な世界なんでしょうね」
宍粟は今では元の世界のことを若干忘れつつある。知識がなくなっているということではなく、すっかり過去の出来事になってしまっているからだ。大したいい思い出もないが、それでもきっと、この世界の人々からすれば幸せな世界だったのだろう。
「そうかもしれませんね。魔法も魔物も無くて、殺し合いもほとんどない。戦争はまだなくなってはいなかったけれど、俺のいた国は平和そのものでした」
「ではこの世界に来たことを後悔なさっていますか?」
「いいえ、全く。テレサさんに会えただけでもこの世界の方が素敵ですよ」
「ふふ、シソウ様、ご冗談を」
宍粟の隣でテレサはにっこりとほほ笑む。横顔は焚火の炎に照らされているせいか、ほんのりと赤くなっていた。宍粟はその美しさに見とれながら、昔のことを思いだしていく。そのどれもが色褪せたように、くだらないことに思われた。
「あの世界は俺にとって生き辛かったんですよ。どれほど努力しても、すればするほど自分の限界が見えてくる。俺がやろうとすることは他の優れた人がやってしまう」
「……そうですか。嫌なことを聞いてしまいましたね、ごめんなさい」
「気にしないでください。別に悪い世界ではありませんでしたよ。ただ俺が適応できなかっただけなんです。それに、今こうしてテレサさんといられるのも、あの世界での過去があったからなんです」
「それほど慕われると悪い気はしませんね。ですがアリスのことも――」
「今は寝てますよ。隊商の人も休息を取っていますし、今は二人きりです」
テレサは面食らったように宍粟を見た。宍粟は相変わらず笑顔であった。テレサは彼を見る時、いつもこの嬉しそうな笑顔を向けられる。初めは彼がこの世界に来て無理をしているのではないかと思っていた。しかし彼はいつも穏やかで、それは決して無理をしているようなものではなく、根っからの正直者がする表情であった。だからテレサは困惑していたものの、最近ではこの笑顔を見ると安心するようになっていた。
テレサはアリスのために楽な生活を捨てた。それからは苦しい生活が続いたが、アリスが元気に育っていくのを見ると、まだ頑張れる気がした。貧民街の者たちはテレサに笑顔を向けてくるが、それは一個人としてではなく、元王妃としての彼女に対してのものだった。
そんな生活が続く中、彼女の大切な娘は見たこともない服装の少年を連れてきた。そして今までに見せたことの無いほど、楽しそうにしているのだった。テレサはアリスのためには、自分はふてぶてしくも王宮に居座り続けるべきだったのではないか、と悩んでいたが、そんな心配が必要ないほどアリスは楽しそうにしているのであった。
少年は不思議な能力や知識を持っていたが、奢ることなく優しい笑顔を向けてきた。それは貧民街に来てから、他とは違う意味を持った笑顔だった。そしていつしか、彼女のために頑張る少年の姿を見ていると、幼い感情を抱いてしまうようになっていた。
テレサは今だけなら、と隣で腰かけている宍粟の手に、自分の手を重ねた。戸惑う顔を見て思わず小さく笑ってしまう。彼の手は暖かかった。
眩しい朝日が昇ってきて、二人の時間が終わろうとしていることを告げる。次第に隊商の人々も起きて来て、アリスも眠そうに目を擦りながら馬車から出てきた。テレサは微笑むと、立ち上がった。
「シソウ様、私達も出発の準備をしましょうか」
「……はい。そうですね」
宍粟は名残惜しそうにテレサを見ていたが、表情を改めて木製の槍を片足の代わりにしながら立ち上がった。そして狼が突き刺さったままの鉄の槍を持ち上げた。片足が使えずバランスが崩れた状態も鉄の重さも感じないほどの力強さを感じていた。
宍粟は馬車の上に乗って、再び見張りを始めた。そして今日も朝食の代わりに干し芋を齧る。その下ではテレサが御者台の近くに控えている。馬車はゆっくりとルナブルクへと向かって進行を始めた。
戦闘の痕跡が残る街道を進んでいくと、すぐに何事も無かったかのような道に戻っていく。そして宍粟は再び槍を振り始めた。今度は鉄の槍だ。さほど高いものではないが、魔物を倒すこともできる武器だ。それを軽々と振る彼の顔には小さな笑みが浮かんでいた。
馬車はやがて森を抜けると、小さな村が見えてきた。物見櫓や木の柵が見えることから、魔物の襲撃を警戒しているのだろう。街道沿いに進んでいくと、見張りの人は何も言わず、通過することが出来た。
この農村は小さく貧しいが、村人に沈んだ様子はない。それはきっと商業が発達していることで、この村にも訪れる客人が多いからだろう。
彼らはこの村に特に用はないので、真っ直ぐに通り過ぎる。村の反対側には特に魔物への備えはなく、それほど高くない門が見えてきた。その向こうには大きな城が見える。
「シソウさん! お城! すごいですね!」
「大きいね。城下町も活気があるみたいだ」
「はい! 依頼が終わったら行ってみましょう!」
アリスは馬車に上ってきて、宍粟の隣に座る。そして二人で初めて見る国に様々な期待を抱いた。