第十六話 緊張の夜
暗い森の奥で、傷ついた獣達が倒れていく。真っ黒な集団は一体、二体と数を減らしていった。そのたびに一際大きな影が口惜しそうに震えるのだ。そしてその集団の先にいる魔物は蹂躙されていく。居眠りをしていたコボルトは、それに気が付くことなく喉を噛み切られていた。
宍粟は見張りをしながら槍を振っている。魔力による身体能力の向上と純粋な肉体の能力は異なるため、たとえ魔力が増えずとも体を鍛えておくことは無意味ではない。槍を振るい、理想的な動作との差を修正していく。
筋肉を過度に疲労させないために、一通りの動作が終わると軽く辺りを歩き回って敵を警戒する。そして何事も無いのを確認すると、右半身を前に出しながら槍を構える。押し出すようにして突き、回すようにして槍を振り下ろす。剣の扱いとさほど変わらない我流ではそれほど役に立つとは思えないが、撹乱や相手の間合いによっては無いよりはましと考えた。
そろそろテレサと交代の時間だろう、と隊商から出された見張りの所へと行く。その旨を伝えようとした瞬間、怖気を震うほど強大な魔力を感じて宍粟は凍りついた。ゆっくりと近づいてくる気配に硬直していた体はすぐには動かなかった。真っ黒な魔物の姿が現れて、ようやく宍粟は我に返った。
「……テレサさんを呼んで来てください!」
「あ、ああ!」
隊商から出された見張りの男性が馬車へと駆けだした。そしてすぐに馬車から飛び出したテレサと鉢合わせしかけた。その表情には焦りが浮かんでいた。そしてその後ろから慌ててアリスも出てきた。
「シソウ様! 敵は……そんな!」
「隊商の方は逃走の準備をお願いします!」
宍粟は馬車を守るようにおぞましい敵へと向かっていく。近づくにつれて敵の姿ははっきりとしていき、やがて大きな牙が目に入った。全身が真っ黒な毛で覆われた狼が警戒しながら、それほど太くはないものの筋肉に覆われた四本の脚を動かす。その獰猛な瞳は向かってくる者をしっかり捉えていた。
宍粟は急に止まった。足がすくんでしまっていたのだ。その視線の先では、十を超える瞳が爛々と輝いていた。とりわけ大きく全長二メートルほどある先頭の一体に続くように、それより若干小さい狼が後ろに引き連れられていた。
剣を構え、敵を見る。その数は全部で七。狼たちは宍粟を囲むようにして動き始めた。しかし宍粟はそのまま微動だにせずにじっと注意を引きつけている。この状況下で最適な行動は、敵を引き付け時間を稼ぎ、そしてテレサの行動を阻害しないことである。敵が分散すればこの隊商は全滅を免れることはできない。だから震える体を押さえつけて、精一杯敵を睨み付けていた。
「伏せてください!」
テレサのよく通る声が響くと、宍粟は躊躇なく地面にへばりついた。テレサの方から魔力を感じた途端、頭上を熱波が通り過ぎて行った。宍粟は目だけを動かして前を見ると、まだ広がっていない狼の集団はその直撃を食らって、その体から煙を発していた。
それからテレサから流れる魔力の奔流が敵の集団に向かっていく。それが敵に辿り着いた瞬間、リーダー格の大きな狼は咆哮した。魔力が乗ったその叫びは辺りの魔力の流れを掻き乱し、テレサが魔法を用いるために使用した魔力は霧散した。
そしてその咆哮に感化されるように宍粟の左の側面に回っていた狼が駆け出した。宍粟は片膝をついて、向かって来る狼に備える。無理に立ち上がって姿勢を崩した所を襲われるよりは、動きは制限されるものの敵に晒す面積を少なく出来るこの姿勢の方が有利であると判断したのである。
狼が跳躍し、頭部を狙う。宍粟は剣を水平にしてその口元に合わせる。狼の牙が剣にぶつかって大きな音が鳴り響き、宍粟は大きく後ろに仰け反った。バランスが崩れた所に狼は更に強く前に出て来るが、宍粟は地に付いたままの左足で地面を強く蹴って右方へと移動する。それと同時に体を捻ることで力を受け流し、回転の勢いにして狼を後方へと投げ飛ばした。
すぐさま立ち上がり、状況を確認する。先ほどの狼は左から右へと移動している。そのため右側には二体になっていた。前方の集団は黒い塊のようになっていたが、その中にいるリーダーの狼は他の狼が盾になったせいかさほど影響がないように見える。このまま攻勢を続けることが出来れば、いけるかもしれない。
宍粟はちらりと背後のテレサを見た。その表情には余裕がなく、畳み掛けるように行動を起こした。テレサは手を前方に突き出すと、炎の矢が発生する。そして放たれた矢はリーダー目がけて飛んでいくが、狼は一斉に散開した。逃げ遅れた一匹の半身を焼くだけに終わり、他の四体の狼は一斉に走り出す。
宍粟は咄嗟に槍を『複製』して投げつけるが、狼はそれを寸でのところで回避する。右側の狼は様子を見ているが、リーダーが飛び掛かれば恐らくそれに続くだろう。危機的な状況であった。
打開する策を見いだせないでいると、狼に向かって複数の小さな火球が襲い掛かった。狼がそれを回避するために左右に振れて速度が落ちたところ目がけて、再度槍を投擲する。今度は狙いを過たずその胴体に当たって、穂先が食い込んだ狼は小さく呻いた。
「シソウさん! 下がってください!」
「助かる! テレサさん!」
「ここで一気に仕留めます!」
アリスの援護に感謝しながら宍粟は狼から距離を取る。そして馬車の近くまで後退すると、先ほど合図を送ったテレサは地に手を付き魔法を発動させる。地面が隆起して一筋の線を描いていき、散らばっている狼の近くまで来ると幾度も枝分かれしながら、盛り上がるだけでなく鋭い石の槍が生成されていく。既に発動している魔法は魔力によって阻害されることは無いが、敵までの間の分消費は多くなり、テレサは疲労が見て取れた。
先ほど槍を受けた狼は抵抗することなくその土の濁流に飲まれて血飛沫が上がった。宍粟へと向かってきていた狼は一体がその直撃を受けて右肩から腹にかけて抉り取られて内臓が零れ落ちた。そしてそれに追従していた狼は頭部が消し飛び盛大に血を噴き出した。
しかしリーダーの狼は後退して、既に火傷を負った狼の所へと退避していた。更に右側にいた狼は範囲の外にいたため全くの無傷である。
「あとどれくらいいけますか!?」
「せいぜい一、二発でしょう……!」
「敵の死骸から魔力を受け取れば……!」
「残念ながら、そうはさせてくれないようです」
残った四体の狼は体勢を立て直し、既に駆け出していた。
馬車の準備は万全とは言えないが、大方終わっている。何台かの馬車を犠牲にすれば、逃げられないこともないだろう。しかしここで逃げ出せば追撃され、少なくない被害が生じる。そして何人かは犠牲になるだろう。
宍粟は剣をしっかりと握りしめて、前を見る。隣に立つテレサに最後の力を使わせるわけにはいかない。万が一のことがあったとき、アリスを守るのは自分ではなく彼女でなければいけないのだから。
「……後を頼みます!」
宍粟は全力で走り出した。四体の獣は怒りのままに疾駆する。もはやお互いに止まることは無い。