第十三話 出発
宍粟が目覚めると、透き通るような金髪が目に入ってくる。それは既に慣れた光景ではあるが、真っ白く肌理の細かい肌や小さく鮮やかな唇には一向に慣れることが出来なかった。なぜならその少女が呼吸をするたびに誘うかのように小さく動き、甘い香りが絡みついてくるのだから。
宍粟は気持ちを落ち着かせようと、視線を少女から逸らした。そして気が付いた。――あるべきものがない。
少女は下着だけでその肌を隠しており、その胸元やしなやかな手は露わになっていた。それより下は布で隠れているため見えないが、それは却って宍粟の葛藤を引き起こした。何故このような状況にあるのか、冷静になれ、触れてはいけない、むしろ何事も無かったかのように寝てしまうのがいい。そんな理性的な大脳新皮質をあざ笑うかのように、欲望のままにしてしまえと大脳旧皮質は囁くのである。
宍粟は激しい葛藤の末、欲求を抑えることに成功した。自分の欲望よりも、アリスが傷つかせたくない思いが先行したのである。瞳を閉じて、冷静な思考を取り戻そうと考え始める。そして思い出した。
(……あのパジャマ複製したの俺じゃないか!)
見て見ぬふりをしようとも、原因が自分にあることを知ってしまうと、罪悪感が押し寄せてくる。そして絶望しつつあった。
(これを狙っていたと思われたら終わりだ! アリスちゃんに軽蔑されてしまう。うわああああああどうしようどうしようどうしよう!)
微動だにしないまま焦り、ままならぬ思考を繰り返す。そんな宍粟に小さな手が触れた。アリスは寝返りを打つと、そのまま宍粟に体を預けた。思わず宍粟は充血し始める。
(そうだ! もう一度複製してなかったことにすればいい!)
宍粟は冷静ではなかった。だから安易にその案を実行してしまった。布の下で複製したパジャマの裾を探しているうちに、アリスはもう一度寝返りを打ってそれを下敷きにしてしまう。更に慌てる宍粟は、彼女を起こさずにこれを着せる術を思いつかなかった。
彼の努力もむなしく、暫くしてアリスは寝ぼけ眼で宍粟を見つめた。宍粟は固まったまま、アリスをじっと眺めていた。それしか出来なかったのだ。
「ふわぁ……シソウさん、おはようございます」
「……アリスちゃん、おはよう」
引き攣っている宍粟を見て、アリスは小さく首を傾げた。それから直に伝わる布の感触に下を向いた。そしてその顔が赤くなって、それから青ざめていく。
「いやぁああああ!」
「本当に申し訳ありませんでした」
弁明を終えて平身低頭する宍粟を、テレサは呆れたように眺めている。
「ではシソウ様がアリスを脱がせたわけではないのですね?」
「はい、その通りでございます。不注意により不快な思いをさせてしまい誠に申し訳ありませんでした」
「……じゃあ、もういいですよ」
アリスの声は普段と同じ優しい口調であった。宍粟が顔を上げると、恥ずかしそうにしているアリスと目が合った。宍粟の心底喜んでいる様子を見て、テレサはますます呆れた。宍粟はその表情も素敵だと思ったのは、心の中にしまっておくことにした。
それから宍粟は南にある門へと向かった。先日、ギルドで隊商の護衛の依頼を引き受けていたので、遅刻しないように時間までに行く必要があった。三人もいれば夜の番も何とかなるため、比較的支払の良い護衛の引き受けることが可能なのだった。
こうして二人と出歩いていると、貧民街では必ずと言っていいほど声を掛けられていた。そのどれもがテレサとアリスに向けたものであり、彼らは宍粟を見て顔を顰めていたのだが、最近は宍粟にも声が掛けられるようになっていた。それはアリスが宍粟のことを楽しそうに語ったり、テレサが宍粟に良い印象を持つように計らっていたからだろう。
テレサは実質的に、この貧民街を治めていると言ってもいい。かつての彼女の行動によってここの治安と生活は向上したそうだ。それで今でも大きな出来事は真っ先に彼女に連絡が来る。喧嘩の仲裁など些細なことは、テレサが忙しいときにはアリスを連れて宍粟が赴くこともあり、テレサの従士として認知され始めていた。この世界に長くいる訳ではないため少々困惑することも多かったが、二人が尊敬されているというのは悪い気分ではなかった。
門の前には、五台の馬車が止まっていた。平民よりは裕福そうな恰幅のいい男性が辺りを見回しており、目の前で立ち止まった宍粟に気が付くと眉を顰めたが、テレサとアリスを見て恭しく頭を下げた。
「これはテレサ様、お久しゅうございます。そちらがアリス様ですか?」
「お久しぶりでございます。こちらが娘のアリスです」
「いやはや、テレサ様に似てお美しいことです。ところで何故このようなところに?」
「隊商の護衛の依頼を受けて参りました」
「おお、テレサ様が! それは心強いです! それでこちらの方は?」
「私と組んでいる冒険者です」
「大麻宍粟と申します。よろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
商人は宍粟のたどたどしい発音を聞いて戸惑ったようだった。冒険者で通訳魔法が使えない者はほとんどいない。しかし宍粟は明らかに母国語ではない言語に通訳魔法を使用しなかったのだから、酔狂とも未熟とも取れる。しかし商人はテレサをもう一度見て、納得したようだ。
それから馬車に揺られながら、南に向かって平原を通り過ぎる。宍粟は初めて乗る馬車に少々興味を抱いていたが、悪路になるとがたがたと揺れる木造の車輪には改善が必要ではないかと、次第に辟易してきた。森に入ると街道が続いているとはいえ、より一層道は悪くなっていく。テレサは商人の傍に控えているので宍粟は馬車の上で見張りを始めた。
何事も無く済めばいい、そんなことを考えながらも、小心かつ慎重な彼は目を忙しなく動かしていた。そして数メートル先に木々の間から覗く豚の頭を見つけた。
「前方にオークが出た!」
宍粟は馬車を飛び下りる。そしてテレサに隊商の護衛を任せて、すぐさま駆け出した。数メートルの距離を一秒ほどで詰め、まだこちらに気付いていないオークの首を狙う。オークがようやく気が付くが、その時には既に刃を寝かせて首に斬り込んでいた。オークの強靭な肉体は抵抗することなくあっさりと切り裂かれ、豚の頭が宙を舞う。
同時に首のない肉体を蹴飛ばすと、巨体は後ろ向きに倒れながら血を噴き出した。宍粟は蹴った反動で後ろに跳んでおり、返り血はそれほど浴びていない。剣についた血を水で洗い流してから宍粟は隊商に戻る。
「いやあ、お若いのに素晴らしい腕前ですな。流石、テレサ様と組んでいるだけはあります」
何故か機嫌のよくなった商人に一礼して、宍粟は再び見張りに戻った。この世界に来ても、やはり宍粟は人付き合いが苦手だった。それからは魔物に何度か遭遇したが何事も無く、開けた場所で野宿をすることになった。
宍粟が薪を用意して焚火を起こす。それを囲むように馬車が置かれていた。夕食の代わりに乾貨等の携帯食が彼らにも賄われた。焚火を囲んで隊商の他の人とも顔を合わせて食事をする、それは宍粟にとって初めての経験であった。
彼らはテレサと話をしていたが、やがて旅の話をアリスに聞かせるようになった。アリスは熱心にそれを聞いては驚いたり目を輝かせたりしていた。宍粟はそれを見て、アリスをどこにでも旅に連れていける実力と財産を得ようと決心するのであった。
簡素な食事が終わると、不寝番は宍粟が引き受けた。アリスはすぐに眠くなって馬車の中に引っ込んだ。隊商からも若い男性が一人、番を引き受けていた。彼らは商人であるが、今回のように少人数の護衛の際は見張りを引き受けるくらいはしてくれるらしい。当然人数が少ない分価格は安くなるので、彼らとしても旨味がないわけではない。
宍粟は独特の甘みがある干し芋を齧りながら、焚火の傍で倒木の上に座った。男はその前に座って、宍粟を見た。
「なあ、あんたどこでテレサ様と知り合ったんだ? すごく気に入られてるみたいじゃないか」
「森で魔物を狩ってたところ、アリスちゃんがオークの集団に襲われててな。それを助けた礼にと家に招かれた」
「なるほどなあ。そんなことがあれば当然か」
「それだけでか? さすがに見ず知らずの男を信用するには足りないと思うが」
宍粟が自分のことに対して否定的に言うのに対し、男は笑った。宍粟は何がおかしいのか、全く分からなかった。
「はは、あんたは随分正直な男だな。テレサ様はアリス様を溺愛されておられるんだよ。あの人が王城を去ったのは、アリス様に王妃様の手が及ぶのを避けたかったからさ」
「王妃様っていうと、今のアルセイユの女王か。あまりいい評判は聞かないな」
「そりゃそうだ。あの人の息子が王位継承権を優先されるとはいえ、民衆の間ではテレサ様の人気が何よりも高かった。アリス様がお生まれになったことで、政局は複雑になったのさ」
テレサさんの人気が高いのは当たり前だろう、あんなに綺麗で素敵な人は他にそうそういない、そんなことを宍粟は思っていた。そしてそれを語るにはあまりにも時間が足りなかったので、一言二言で済ませることにした。
「なるほどな。テレサさんより優れた人なんてそうそういるはずがないしな」
「あんたもテレサ様に傾倒してるのかい。さてと、こんな話はこれくらいにしておくか。誰かに聞かれたらこれだ」
男は手を首に当てる動作をして、笑った。宍粟もそれにつられて笑う。そうして語り合いながら夜は更けていった。