第二十九話 大志
シソウがアルセイユに戻ってきたとき、まだ日は頭上にあった。それから人波を掻い潜って研究所の自室へと向かう。そうして研究所に着いたとき、衛兵はシソウを見るとすぐさま会議室に通した。
シソウは早くナターシャに礼を言いたかったのだけどな、と思いながらもその後に続いた。扉を開けて中に入ると、そこには研究所に勤めている者たちだけでなく、国の貴族たちもいた。
思わずシソウは辺りを見回した。そこにはマーシャとナターシャの姿があった。マーシャはシソウを見ると、微笑んだ。シソウは暫し戸惑っていたが、促されてナターシャの隣に着席した。
そういったこともあってシソウは気まずさを覚えていた。それから話を聞いていくと、どうやら休み明けの明日から新年度となり、新入生も入って来るそうだ。シソウはもう一年経ったのか、と他人事のように考えていた。
シソウがそんなことを考えていると、ナターシャが告げた。
「無事理事長が戻られたので、代表による挨拶は、私ナターシャに変わってオオアサシソウが行います」
シソウは寝耳に水、と口をあんぐりと開けた。しかし暫くしてシソウが我に返ったときには、次の議題に移っていたので質問をするタイミングを逃してしまった。
そして会議が終わるなり、シソウはナターシャに尋ねた。どういうことかと。ナターシャは呆れたようで、すげなく答えた。
「明日から新入生が入って来るんだ。入学式の挨拶に理事長不在では恰好がつかないだろう? 何しろ、今年からは他国の貴族の子弟たちもここに通うようになるんだ。寮の整備も終わって、準備も万端だ。後は全然責務を果たそうとしない理事長が帰ってくるのを待つだけだったんだよ」
「なんかすまんかったな。……ナターシャ、今回は本当に助かった。愛してる。だからこれからも理事長はナターシャがやってくれると助か――」
「断る」
あっさりとナターシャは言った。マーシャはシソウくんがまた浮気してる、と慌てだしたが、ナターシャはそれをきにせずに続けた。
「各国にはシソウが代表だということで話をしてあるんだ。それが違うとなれば、問題だろう。お前が科学の権威であり、それがこの組織の価値を高めているんだ。だから不在であろうが仕事をしなかろうが研究を放り出そうが他国の女に現を抜かそうが理事長であれば問題ない」
「……ナターシャ怒ってる?」
「いいや。ちゃんと姉さんの相手もしてくれれば文句はないさ」
善処する、とシソウは神妙に頷いた。それから明日の準備を何もしてない、とシソウが慌て出すと、ナターシャは原稿を手渡した。シソウは喜び勇んでそれを受け取って、ざっと目を通す。
よくできている原稿だった。シソウは特に文才があるわけではなかったので、それはありがたかった。
「ありがとうナターシャ愛してるぜ」
「また調子のいいことを。それは姉さんに言ってくれ。書いたのも姉さんだ」
シソウは暫くナターシャが何を言っているのか分からなかった。そして暫くしてからマーシャの方を見た。彼女は褒めて褒めてとでも言いたげにシソウの言葉を待っていた。
「マーシャ、ありがとう助かった」
「えへへ、もっと褒めてくれてもいいのよ」
「やればできる子だと思ってたよ。才色兼備とはマーシャを表すのに最適だ」
「ふふ、ありがと。シソウくん大好き」
シソウはでれでれになるマーシャを見て、これくらい言っておけばいいだろうかと思っていると、ナターシャは会議室を出て行った。さすがに気まずくなってしまうか、ナターシャには悪いことをした、と後で謝っておこうと思い直した。
それから原稿を見ていく。何やら堅苦しい部分もあるが、それは他国の貴族の子弟もいるためだろう。シソウはそれを暫く読んでから、マーシャに言った。
「……長くね?」
「一字一句違わずに読む必要はないのよ。参考にしてくれるだけでいいから、シソウくんが思ったことを言えばいいの」
マーシャがそう言って、シソウの手を取った。微笑む彼女の愛情の深さを知り、シソウは安堵した。そして何とかなりそうな気がしたのであった。
そして入学式当日になって、シソウは大講堂に足を踏み入れると、新入生の数の多さに思わず震え上がった。シソウは人前で話すのが得意ではない。学会発表では随分しどろもどろになったものだ。それは内容についての理解が足りないせいではなく、彼自身のコミュニケーション能力の低さによるものである。
そのためシソウは多くの新入生たちを前にして、すっかり緊張していた。暫くして、アリスによる挨拶が行われた。彼女はすらすらと口をついて言葉が出て来るようだった。やはりこのあたりは生まれ持った才能だよな、とシソウは思うのだった。
それから盛大な拍手が起こった。暫くしてそれが止むと、次はシソウの挨拶に移る。アリスはすれ違いざまに、シソウににっこりとほほ笑んだ。それからシソウは壇上に上がると、照明の眩しさに目を細めるのであった。
彼が姿を現すと会場はざわめいた。他国にはそれほどシソウの人物像が広まっていたわけではない。製品や発明ばかりが独り歩きしており、人前に出て名声を求めることもしなかったため、どちらかといえば老人のような印象を持たれていたのであった。
しかしシソウが一歩前に出ると、場は不思議と静まった。それはシソウが持つ存在感が大きかったのかもしれない。それは人間性に関わったものではなく、単純に高レベルの冒険者として持つ威圧感のようなものであったが。
「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます」
そうした挨拶からシソウは始めた。暫く話をしていると、シソウはつい何を言えばいいのか全く思い浮かばなくなった。一夜漬けで原稿丸暗記をしてきたため、内容については全く覚えていなかったのだ。
このまま間が開けばまずいとシソウは咄嗟に人の言葉を借りることにした。
「皆さん大志を抱いてください。それは金や自分の欲のためにではなく,名声という空虚なもののためであってはなりません。人がどうあるべきか、そのあらゆることを成しとげるために大志を持ってください」
そしてシソウはようやく思い出した結びの言葉を述べて、頭を下げた。壇上から立ち去ると、シソウは思わずため息を吐いた。やはり来年からはナターシャに任せた方がいいのではないかと思うのだった。
そして入学式が終わると、新入生たちも口々に感想を言い始める。貴族の子弟として教育を受けているものの、こういったところはまだ子供だよな、とシソウはそれを眺めていた。そしてシソウはナターシャやマーシャ、アリスと暫く残っていたのだが、近づいてくる人物を見つけた。
「あれ……ルルカ?」
「うん」
彼女は綺麗な衣服を着ており、とても可愛らしかった。アリスはルルカに興味を持ったようであった。思えば、アリスに同世代の友達はいない。キョウコとは相性が悪く上手くいかなかったが、この二人なら仲良く出来るのかもしれないとシソウは期待した。
それからルルカに話を聞くと、どうやらエノーラはルルカを養子にしたらしい。そのため貴族たち同様にこの学舎に通うことになったそうだ。シソウは縁のある者を送り込むためだろうかと邪推しながらも、ルルカが元気そうであったので何よりだった。
それからアリスはルルカと仲良くお出かけすることになったので、シソウはマーシャを連れて雑務に戻った。