第二十六話 ネレイドの民
それからシソウは宿に戻って荷物をまとめた。これ以上マハージャに用はないため、ルルカを連れてウェルネアに向かうことにしたのだった。まだ雨は降っているため、まとめた荷物には防水性のカバーを掛けておく。
そしてルルカに合羽状の雨具を着せて、宿を出る。シソウは馬車を借りるのは面倒だったので、背中に荷物を載せて、ルルカを両腕に抱え、ウェルネアへと駆け出した。
ぬかるむ道を、泥をはね上げながら駆ける。シソウが速度を上げてもルルカは特に驚かず、シソウにしっかり掴まっていた。そのため魔物が出ても無視して進むことが出来、ウェルネアにはすぐ着いた。
しかしからりと乾いた、美しいウェルネアの風景を見てもルルカはあまりいい顔をしなかった。どうしたのかとシソウが尋ねると、ルルカはこの街が好きではないのだと答えた。
「この街が栄えたのは、マハージャを、私たちを見捨てたから。だから嫌い」
ルルカがそう言うのは間違ってはいないのかもしれない。確かにマハージャに住んでいれば、このウェルネアに見捨てられるように感じることだろう。しかしだからといって、ウェルネアがマハージャに出来ることもないのだ。
凝り固まった腐敗した上層部はそうそう変わることなどなく、そしてウェルネアは交易により財政的には余裕があるが、政治的な発言力は決して高くはない。そのためマハージャに対して強く発言することなどできないだろう。
シソウは港に向かって歩き出した。誰か一人くらいいるだろうと思ってのことである。それは当たっており、シソウが港に着いたとき、数人のネレイドの民がいた。遠くからでも青い短髪は目立つのであった。
彼らはシソウを見るとすぐに声を掛けてきたが、ルルカを見て驚いたようだった。シソウは片手を挙げて軽く挨拶を済ませると、マハージャに行ってきたという旨を告げた。それを聞いて彼らは驚いたようだったが、シソウの人柄を知ってか、特にそれ以上何も追求しなかった。
ルルカは彼らを見て驚いていたが、特に見知っていたわけではないようだった。しかし同族が生きているということには安堵したのだろう。少し表情が和らいでいた。
暫くすると、サザランがやってきた。ルルカは彼を見ると、少し怯えたようにシソウの後ろに隠れた。厳つい大男を前にしてする行動としては、妥当なところだろう。
「シソウさん、どうも久しぶりです。その子は?」
「マハージャで会ったルルカって子で、ネレイドの一族ということで連れてきたのですが、知っている人はいないかと思いまして」
「そういうことなら、すぐにでも集めますぜ」
サザランはすぐに男たちに伝令を出した。ルルカの知り合いはいないかと。それから暫くして、それほど親しい中ではなかったが近所のおばさん程度の知り合いが見つかった。ルルカは安心したようだった。
その晩、シソウはサザランたちと飯を食いながら、今後の予定について話を切り出した。ルルカをここで預かってもらえないかと。シソウは衝動的にルルカを買い取ってしまったとはいえ、これからずっとその面倒を見るのは大変であった。
ルルカはシソウの服をつまんで離そうとはしなかったが、シソウがその頭をぽんぽんと叩くと、諦めたように俯いた。それから公務の合間に来てくれたのか、少しだけ同席したエノーラは、それを快諾した。責任を持って預かると。
それから暫く晩餐は続き、ルルカも打ち解けてきたようだった。色々と無責任ではあったが、現実的に考えるとこれ以上どうすることも出来ないのだとシソウは思う。セレスティアやセツナと式を挙げてしまえば、危険な冒険になど行かせてはもらえないだろう。それまでの自由な期間に、前人未到の偉業を成し遂げなければならないと、シソウは考えていたのだ。
二人との婚姻によって公的な立場は確立されることになる。そこに業績が加われば、そんな人物との婚姻を阻もうとする者は少なくなるだろう。それによって半ば強引にでもテレサと公的に付き合いたいと思っていたのだ。
もちろん、そこでセツナやセレスティアが反対すれば全て終わる計画なのだが。そして二人との婚姻も、打算的な面があったとはいえ、二人を好きだからこそ決めたものである。それだけは確実であった。
これらの考えはシソウの一方的な思い込みによるものであり、テレサに相談すれば何とかなったかもしれないし、個人が籍を入れるのを止める法律はない。しかしシソウは独り善がりであり、そういった考えを持たなかった。
そしてその翌日、シソウはルルカと別れてアルセイユへと経った。シソウは全力で街道を駆けると、すぐにアルセイユに到着した。
シソウは着くなり真っ直ぐにテレサの元に向かった。彼女の私室を訪れると、すぐにテレサは迎え入れてくれた。そして今までと変わらず、二人でベッドに腰掛ける。シソウはこれまであったことを話そうとしたが、その前にテレサに笑顔で告げられた。
「おめでとうございます、シソウ様。セレスティア様とセツナ様、両名とご結婚されるそうで」
「ありがとうございます。ですが互いに打算的な面が見え隠れする結婚ですよ」
「それでも、お二方ともシソウ様を好まれておりますよ。シソウ様もそうではないのですか」
セレスティアとセツナにとって何が打算的であるかは言うまでもないことだが、シソウにとって何が打算的なのか、テレサは聞かなかった。平然と答えるテレサに、シソウはどうしようもない幼稚な感情を抱くのだった。
自分で決めたことなのだから、それに口出しできるわけではないが、それでもテレサには少しでも気に掛けてほしかったのだ。色々な思いが重なって、シソウはもう自分でもよく分からなくなっていた。
「大丈夫ですよ。シソウ様ならきっとうまくやれます。そんな心配そうにしないでください」
テレサにそう言われると、シソウはそういうことではないのだと思いながらも、それを伝えることは出来ずに、ただ安心してしまうのだった。テレサといる時間はむやみやたらと心地好く、聞こえる声音はあまりにも感覚を麻痺させる。
シソウは隣りのテレサを見るが、変わらず柔らかい笑みを浮かべていた。シソウはそれに暫し酔い痴れて、何もかも忘れてしまいそうになった。
ここでテレサに求婚すればよかったのかもしれない。しかしシソウはこのアルセイユで研究所の長というだけで、爵位などを持つわけではない平民である。その上出自が不明であり、王の母という立場のテレサとは、あまりにも身分がかけ離れていた。
そして強引な結婚をすれば、それは少なからずアリスに影響を及ぼすということも理解している。だからそれは出来なかった。それでもシソウは諦められなかった。
シソウはこの旅であったことをテレサに話し始める。それを聞いてくれる彼女に安堵しながら、シソウはやはり彼女は美しいと思うのだった。
そうしているうちに随分と時間が経ってしまったので、シソウは立ち上がって退室しようとする。そしてテレサが言った、立場があるという言葉を思い出して、振り返り言った。
「いつかきっと、貴方を迎えに行ける力を、身に付けて見せます」
驚く彼女に、シソウは微笑んだ。
シソウは残りわずかな休みの期間にやることを決めた。必要なのは誰よりも強くなること。そして偉業を成し遂げること。シソウの中で既に答えは出ていた。
再び魔の領域に行こう、と歩き出してから、マーシャにも会っていくか、と頬を緩めた。きっと変わってないんだろうな、と。彼女のふざけた態度も懐かしく、楽しみであった。