第一話 気が付けば異世界
気が付くと、目の前には大草原が広がっていた。
大麻宍粟は数分前までは大学生であった。卒論時期の多忙さに嫌気が差しながら、それでも地下鉄に乗って大学へ向かう途中、つい転寝をしてしまったのである。そして目覚めたときには、この有様である。
その荒唐無稽さに思わず呟いてしまう。
「どこだよ、ここ」
一歩踏み出すと、靴底にしっかりとした土の感触があった。夢じゃないのか、と身体をぺたぺたと触ったり眺めたりする。服装はジーパンの上にシャツとパーカー、そしてコートのままで何ら変わったところはないのが、どうにも違和感があった。
彼がそれからしたことは体調の確認だった。どこか怪我をしていないか、調子が悪い部分はないか、身体を動かして調子を確認するも特に異変はない。それどころか、徹夜続きでダメージを受けた腰の痛みも引いており、肩の凝りも改善されていた。しかし整骨院に行った記憶はなく、大自然の中で精神が癒されるといったセラピーを予約した覚えもない。
「どういうこった。まさか拉致されたってことはないよな」
呟きは風が攫って行き、その疑問に答えるものはどこにもいない。
やけに広く見える草原を見渡すと、辛うじて建造物が見えた。いつまでもここにいる訳にもいかないだろうとそこに続く街道へと歩き出した。
風景はパノラマ写真のようにやけに広がって見える。その理由は草の丈が大きく、木々もやけに大きいからだろう。今年の身体計測では百七十センチを超える宍粟の頭の高さでも、近くの草にすら埋もれてしまっているのだ。そして杉のような針葉樹が散見されるのだが、それは彼が知っているものの倍以上の高さがある。
街道沿いに暫く歩いていくと、大きな城門が見えてきた。ここまでする必要があるのかと思われるほど高く、軽く二十メートルはあるだろう。宍粟は日本の城を思い浮かべると、あまりの落差にここが日本ではない、と認めざるを得なくなった。
そうすると急に不安になってきて、誰かに連絡を取ろうと考え始めた。しかし携帯が入っていたはずの鞄はどこにも見当たらない。送金して貰うことが出来なければ、帰りの旅費の目途が立たず、それどころか生き延びることさえ困難になるだろう。
宍粟は駆け出し、辿り着いた門では何人もの衛兵が任務に当たっていた。ここにきて、宍粟はさらに不安になってきた。そもそも彼はコミュニケーションを取るのが得意ではなく、そして門番は見た感じ東洋人ではなかった。英語でうまく話せるだろうか、そもそも英語圏なのだろうか。
暫く躊躇してから、意を決して歩き始めた。緊張した面持ちの宍粟に気が付いた衛兵は怪訝な顔をした。
宍粟は一呼吸してから、先手必勝、と先に声を掛けることにした。
「は、はろー?」
緊張のせいで声が上ずってしまい、失敗したと後悔する。しかしそれどころではなかった。何せ衛兵たちは顔を見合わせてから、何か宍粟の知らない言語で問い詰めてきたのである。
時間が経つにつれて強面の兵士たちが次々と宍粟に集まり出す。彼らは口々に何かを言っているが、何一つ分かることなどなかった。宍粟はしどろもどろになりながら知っている言語を片っ端から話してみるが、誰一人として理解を示すものはいなかった。
「あ、あの、その。ええと……すみません!」
宍粟は得体のしれない彼らが怖くなって、踵を返して逃亡した。それから宍粟は全力で走った。追いつかれてなるものか、と。息が切れ始めた頃に振り返ってみると、衛兵たちは初めから彼に何も興味を持ってはいなかったようで、それぞれの持ち場に戻っていた。
舞い上がっているのは宍粟一人なのであった。彼らは悪戯とでも思ったのだろうか。宍粟は急に虚しくなって、とぼとぼと歩き始めた。
「何やってるんだ、俺……」
逃げるようにして街を後にしてしまったが、これでは先が思いやられる。戻って話を聞くのが正しい選択だとは思う。それでも先ほどの恥ずかしさを思うと、それは選択肢にはなかった。
街道なのだから、まさか打ち捨てられた廃墟や深い山中に繋がっているということはないだろう。反対側に何らかの施設があるのを期待できないことはない。そうと決まれば歩くのみ、と気を取り直したが、この大自然のスケールでは徒歩で何日掛かるか分からなかった。そして食料も水も地図もない上、路銀も心許なく、財布の中にはお札が三枚あるだけだ。それも福沢諭吉ではない。野口英世の方だ。
まさに絶体絶命である。宍粟は切り株に腰を掛けながら、頬杖をついた。その時、茂みで何かが動いた。やがて姿を現したそれは、犬の頭、灰色の体毛、尻尾を持っていた。そしてその宍粟の肩くらいまでの高さしかない生き物は、お手製の小さな石器を木の棒の先端に付けた槍を持っている。それはどう見てもファンタジー世界に出て来るような雑魚、あいつである。
(コボルトか……? いや、奇形の可能性も……)
逃げるのか戦うのか、戦うのであれば武器はどうするか。そもそも傷害罪に当たるということはないのか。日本での感覚が抜けきらない彼は躊躇していた。辺りを見回すが、使えそうなものは何もない。
そして目の前の小柄な犬相手ならば、槍にさえ気を付ければ無手でも対応が可能だろうと踏んだ。宍粟は少々の武道の経験があった。
その一瞬の逡巡の後、コボルトが先に動いた。槍を掲げ、足をばたつかせながら迫り来る。そして大きく振りかぶり、槍に振り回されるように突きを繰り出した。宍粟はそれを素早く回避し、懐に入ると同時に胴体へと蹴りを繰り出す。
宍粟はそのとき無防備な胴体への一撃を確信していた。しかし返ってきたのは、予想以上に軽い音であった。コボルトが首だけを回して銀の瞳で彼を見る。宍粟は慌てて後方へ跳躍し、距離を取る。
(速度は十分だったはず。そして奴の胴体が硬かったということもない。ならば、考えられるのは……)
物理法則の差異、質量の取り扱いの違いなど、敵への警戒を怠らないまま様々な仮定を瞬時に行う。そして一つの結論に行きついた。
(俺が縮んだ? いや若返ったのか……?)
そうであるならば先ほどから妙に軽い体や、考えてみれば普段よりも低い目線も、服の違和感も説明が付く。それと同時にこの状況は危機的と言えなくもなかった。
打撃は効かない、武器もない。こんな時に木刀があれば……。その思考に至った瞬間、全身の力が引き抜かれるように、抜けていった。
(遅効性の毒か……!?)
どっと汗が噴き出る。この見知らぬ地では解毒剤の目途は立たない。既にコボルトはしかと宍粟を捉えていた。慌てて呼吸を整えながら一挙手一投足に気を配る。しかしそれ以上の体の変化はなかった。
そして、手に馴染んだ木刀の感覚があった。
「なんだこれ……!?」
戸惑う暇もなく、コボルトは襲来する。宍粟は反射的に正眼に構え、槍の軌道を見据えた。コボルトが大げさな動作で槍を振り上げるその瞬間に彼は前へ踏み込んだ。脇を引き締め、小振りな動作で回転の勢いを乗せて、一気に敵の胴体を振り抜いた。
くの字に曲がり苦悶するコボルトから一歩下がり、木刀を大きく振りかぶる。そしてがら空きの頭部へと一撃を加えた。
敵が動かなくなったのを確認し、一息つく。これは殺人なのだろうか、正当防衛は働くのだろうか。罪悪感は全くなかったが、これからの立ち振る舞いを考えると、暗澹たる気分であった。
そうした精神とは裏腹に、体を流れる力の奔流に気が付いた。その発生源は、先ほどまで活発に動いていた犬の死骸。失われた力が蘇るように、活力が漲ってくる。
魔物を倒して力を得る。ゲームなんかではよくあることだ。そして何もないところから武器を生成するのなんて魔法しか考えられない。そう考え始めると、何の根拠もないのにそれが真実であるような気がしてしまう。
「これはどう考えても、魔力ってやつだよなあ」