ハードルを越えて
夏休みが目前に迫り陸上部員はいっそう練習に力が入っていた。
ここ神山東高校は創立10年の周りの高校に比べるとまだまだ歴史の浅い学校ではあるが、創立当時のモットーである『文武両道・自主自立・切磋琢磨』の三本柱のもと、生徒全員が何かしらの部活動に所属している。
しかし、『文武両道』ということで勉強も疎かにはできない。中間考査または期末考査で赤点(35点未満)を取ってしまうと、もれなく担任から進路指導室(通称:牢獄)への招待状を手渡されてしまう。そこで行われること、それは世にもおぞましい補習という名の拷問。できることなら避けて通りたい。
7月中旬、本格的に夏が始まるか始まらないかの微妙な時期ではあるが、蝉の大合唱が吹奏楽部の演奏をバックに絶賛公演中だ。
この騒音と言っても過言ではない蝉のコーラスを背に陸上部部長、松本周が黒いスポーツバックを肩に提げ、後輩に「シャワーでも浴びてきたんですか?」っと引かれるほどの汗をかきながら部室にあらわれた。
「まっ、間に合いましたか。監督?」
と必死の形相で監督に言った。「ど、どうした?」っと一瞬面食らっていた監督も状況を把握したのか、左手首にしていた紺青色のベルトに黒で縁取りされたデジタルの文字盤を有する時計に目をやり、いつも通りの明るいトーンで返した。
「リミットまで1分弱ってとこかな。とりあえず、汗を拭いたらどうだ?」
普段は明るく、どこか子供っぽさが抜けないおちゃらけな体育教員であるが、部活動となると人が変わる。
集合時間に1分でも遅れるとペナルティーとしてその日のメニューに加えて『特別メニュー』が待ち受けている。簡単に説明すると、部活動終了後に監督と『罪』を犯した者が一対一で行う地獄の課外練習である。特別メニューが執行された者は、翌日の授業で睡眠学習のオンパレード間違いなし。
「は、はい。で―――、今日のメニューは?」
と水色のスポーツタオルで汗を拭きながら部長らしく尋ねた。が、聞かずとも次にどんな言葉が返ってくるか大方予想はついていた。
「えぇ、いつものようにアップしてから種目別にタイム測定だ」
やっぱり、っと九割五分予想が的中し内心ガッツポーズ。残りの五分は筋トレが入ってくると思ったのだが……。しかし、テストで95点取れれば怒られることはないから、許す。
県大会に繋がる地区の予選会が来週に迫っていた。
高校生活最後の夏に向けて周は走り出す。
ゴム手袋の中は通気性が全くなく、手が汗でぐっしょり濡れていた。
トイレ掃除に悪戦苦闘していた芦田葵はトイレットペーパーの補充を済ませると、自分の荷物を持ったままピンク色のファイルを清掃担当の先生のところへ持っていった。掃除完了の確認印をもらうためである。
確認印をもらうとそのまま教室に戻り、ファイルを元々あった黒板脇の棚に投げ込んだ。走ること専門だが、肩にもそれなりの自信がある。なんせ小学生の頃は男の子に混じって少年野球をしていたのだから。ちなみにサウスポーだ。
真っ直ぐ投げられたファイルは一直線に棚へと吸い込まれていく。見事ストライク。担任の呆れ顔が目に入ったが気にしない。
ヨシッ、っと小さく拳を握る。ついでに左手首裏にしていた女の子らしい薄桃色の革製ベルトにローマ数字が刻まれた文字盤の腕時計を確認した。
4時2分前……。冷や汗が背中を伝うのを感じた。ヤバッ、っと思ったときには体が昇降口に向かって動いていた。
一階まで降り、昇降口隅の生徒会室前を通って下駄箱へと向かう。「そういえば、もうすぐで文化祭かぁ」などとのんきなことを考えている場合ではない。上履きに指を掛ける。脱ぐ。自分の下駄箱を探し、履き替えると同時に昇降口から飛び出した。
その足取りは雪に喜ぶ子供のように軽快で、軽やかであった。
だが、今日の葵はいつもとはどこか違う、何か違う。
今まで越えることができなかったハードルを超えようとしていた。