嘘つきの代償
オデッサには冒険者の恋人がいた。
過去形である。
既にお別れして綺麗さっぱり過去の事として笑い話にできる程度には、オデッサの気持ちの整理はついていた。
オデッサは冒険者ギルドでギルドマスターの補佐をしている女性であり、元恋人のゾックとは言ってしまえばギルドで何度も顔を合わせ、そこからちょっとした会話が発展して……という、まぁゾック以外の誰かであってもありそうな出会い方だった。
ただ、その当時は別にゾック以外の誰でも良かった、というわけでもないとオデッサは断言できる。
世の中何事もタイミングである。
当時のオデッサは、たまたまその時ゾックと恋に落ちるタイミングだった。
言ってしまえばそういうやつだ。
今だから冷静になって過去を思い返す事もできるが、他にも素敵な人はいたのになんでゾックだったのかしらねぇ……という気持ちもあるけれど、あの頃は色んなタイミングが重なってゾックに恋をしてしまったから、他の素敵な人は無意識にそういった相手として見なかったのだろう。
素敵な人に毎回恋をしていたら、オデッサは一体どれだけ恋多き者になっていた事か。
流石にそんな事になっていたら、尻軽どころの話じゃない。
ゾックに恋をしていた時は、一途にゾックだけを想っていた。これに間違いはない。
ただ、まぁ。
恋はいつしか冷めるもので。
飽きたとかそういう話ではない。
ゾックの態度が徐々になんていうか……付き合い始めの頃と比べてオデッサにとって悪い方に変わってしまい、そこからゾックへの想いが冷めてきたというか薄れてきたというか……ともあれ、最初の頃の熱量を保てなかったのは事実である。
これでも一応結婚を前提にしていたはずなのだ。
だから、まずはお試しという形で同棲だってした。
オデッサはギルド職員として勤めていて、職員専用のアパートがあるけれどそこはあくまでも職員専用。
独身者向けの部屋であるので、そこにゾックを入れるわけにはいかない。
ゾックも冒険者として活動しているのもあって、持ち家は所持していなかった。
だからこそ日々、宿で生活していた。
適当な部屋を借りるのも考えたようだが、宿なら食事も出てくるし、頼めば衣服であれば洗濯もしてくれる。
部屋はゾックが外出している間に清掃だってしてくれる。
けれども宿ではない部屋を借りるとなれば、そういった生活の細々した事も全て自分でやらなければならない。
それが面倒でゾックはずっと宿を借りて暮らしていた。
一応そういった生活をしている冒険者はゾックだけではないし、そういうのも含めて宿は部屋を貸していたりもするので、別に何も問題ではない。
だが、いずれ結婚するのならオデッサは単身寮とも言える部屋を出る事になるし、ゾックだってずっと宿暮らしというわけにもいかない。
だから二人で暮らす部屋を借りて、そうして共に生活をし始めたのである。
最初の頃はお互いに、新婚生活みたいでちょっとウキウキした。
いつもならギルドで顔を合わせて、依頼関係の話をするくらいだ。
合間の人がいない時にちょっとした世間話をしたりだとか、オデッサの休憩時間に一緒に昼食を、だとか。
そういった限られた時間で会って話をするだけだったのが、朝起きた時から顔を見る事ができるのである。
今までにない特別な環境に、浮かれていないと言えば嘘だ。
ただ、まぁ。
今まで生活に関する事の一切をしてこなかったゾックが掃除洗濯料理といった家事をこなせるかと言われれば微妙なところで。
一応依頼で外に出て、魔物退治をしたりダンジョンに潜ったりした際に簡単な料理くらいは作ったり、川で軽く汚れを落としたりするくらいはしても、できるのはそれくらいである。
そこから更に手間暇をかけるような料理は作った事もないし、それ以外の家事だってそう。
だからというべきか。
気付けば部屋の掃除や洗濯はオデッサの役目に自然となっていった。
別に最初はそれでも良かった。
新婚気分できゃっきゃできた。
だが、それが当たり前になってくると、ゾックは当然感謝の言葉なんて述べないし、むしろオデッサの仕事が長引いて帰りが遅くなっても代わりに家事をしてくれるでもなく文句を言うようになった。
生活のリズムは最初の方こそ互いに合わせようとしていたけれど、そもそも不規則なのが当然の冒険者と、ある程度規則正しいオデッサとでは、合わせようにも難しい。
最初の頃はそれでもゾックがオデッサの生活リズムに合わせていたが、依頼で魔物を倒しにでかけたり、ダンジョンへ行くとなれば当然そのリズムは崩壊する。
最初の方こそオデッサとて帰りが遅いゾックを起きて待っていたりもしたが、翌朝が早いのがわかりきっているので毎回待つのは難しい。
だから互いに割り切って、今まではギルドでちょっとしか会う時間がなかったけれど、一緒に暮らすようになってその時間が増えただけでも充分じゃないか、と思おうとしていたのだ。
少なくともオデッサは。
けれども段々と不満が募るようになっていった。
家事は全部オデッサがやる流れになっていたし、ゾックは脱いだら脱ぎっぱなしでそこらに汚れた衣服を放置している。せめてきちんと洗濯籠に入れておいてと言ってもそれを素直に実行してくれるのは、五回に一度くらいだ。そうなると余計な手間がかかるオデッサの不満だって募る。
なんだか恋人というよりは、家政婦みたいだわ……なんてオデッサが思うようになるのも無理はなかった。
ただ、最初の頃のイチャイチャしていた僅かな期間は、本当にままごとみたいな健全な関係であったし、そこから徐々に忙しくなってきたのもあって身体の関係まではそれほどなかった。
そういった家事で疲れてその上で更に夜の方も……となっていたら、恐らくオデッサはもっと早くにブチ切れていたかもしれない。
ゾックはゾックで魔物との戦闘で色々と昂ったとして、夜遅くに帰って既に眠っているオデッサを勝手に使うような真似はしなかった。
流石にそれをやれば怒られるというのは理解できていたので。
なのでそういう時は大抵一人で処理をしていた。
オデッサが不満を溜め込むようになって、ゾックもまた同じく不満を抱いていた。
確かに家事をしてくれて感謝の気持ちはあるけれど。
でも、なんていうかそれだけなのだ。
ゾックとしてはもっと甘い蜜月のような生活を期待していた。
けれども、オデッサはオデッサで生活のリズムが整っていたし、ゾックはそれに何もかも合わせるわけにもいかない。
依頼された魔物退治の内容によっては、夜遅くに出かけないといけないものもあるのだ。
だからこそ、家に帰ってきた時にはこれでもかとゾックの荒んだ心を癒してほしかったのだけれど。
そういう時にやれ洗濯物をきちんと籠に入れておいてだとか、小言を言われるとそれはそれで面白くない。
いや、やらなかった自分が悪いのはわかっている。
わかっているけれど、疲れ果ててそこまでの気力がなかったのだ。
食事だって、もっと沢山肉が食べたいと言っても、栄養面を考えて野菜も食べて、と言われるし。
野菜たっぷりの料理は量もあるし、味が悪いわけではないけれど食べた気がしないのだ。やはり肉をガツンと食べなければ力が出ない。
力が出ないと魔物退治の際に大変な事になるかもしれない。
けれどもオデッサからは、肉もちゃんと出していると言われるだけで、特に改善はされなかった。
肉が多めに出てきたと思っても、それ以上に野菜も大量に出てくる。
野菜なんていらないから、その分全部肉にしてほしいくらいだ。
そんなこどものような愚痴を、同じ冒険者仲間に愚痴ってしまったのが恐らくゾックにとって運命の分かれ目だったのだろう。
一仕事終えて、同じ依頼を受けていた同僚冒険者と共に仕事終わりの一杯と洒落込んで。
酒場で酒とたっぷりの肉料理を注文して、これだよこれ! という気持ちになって。
仕事が終わったという解放感とアルコールが混ざった結果、小さな不満は致命的な不満のように思えてきて。
気付いた時には同僚にべらべらと喋っていたのである。
同僚冒険者はそんな愚痴を「なんだよ惚気かこいつめ」という気分で聞いていた。
肉がたくさん食べたいならその分材料を持ってってこれ作ってくれってやればいいだろとも。
同僚冒険者にもかつて恋人がいたけれど、しかし破局してしまったので。
どちらが悪いとかではなく、まぁ相性が悪かったんだろうなぁと思っているのでそれについて愚痴るつもりは今更ないけれど、それはそれとしてなんだかオデッサばかりが悪いみたいに言い募っていくゾックに少しばかり苛立ちもした。
まだ奥さんではないけど、お前の健康のために色々と工夫してくれて、腹空かせない量をきっちり作ってくれて、掃除や洗濯だってやってくれてるのだ。オデッサの事を同僚冒険者だって知っている。この街の冒険者ギルドを利用した事がある奴なら、絶対に一度は顔を見ている相手なのだから。
そんな相手に感謝こそすれ不満を垂れ流し続けるのはよろしくない。
不満を口にするなというわけではない。
言ってもいいがそれをいつまでも引きずるなという話だ。
だが酒も入ったせいで、ゾックの愚痴は延々とループし始めているし、最初に聞いていた内容からどんどん大袈裟に盛られていくので、流石にこれ以上聞いていて気持ちの良い話ではなくなってきたのも事実だった。
だからだろうか。
同僚冒険者は、だったらよぅ、なんてちょっとした思い付きみたいな軽い口調で言ったのである。
「肉たっぷりの料理を、お袋の味で懐かしいから作ってくれとか言えばいいだろ。
ただ肉がたくさん食べたいってだけじゃ我侭にとられてもしゃーねぇけど、お袋さんの味だってんならたまになら……って譲歩してくれるんじゃねぇの? あの人ならそれくらいはしてくれるだろ」
「お、それいいなあ。今度言ってみて駄目なら情に訴えるわ」
酔っ払ったゾックはそんな同僚冒険者の言葉を名案だとばかりに笑った。
その後はグラスに残った酒と皿の上に残った料理をさっさと平らげてお開きとなった。
同僚もいつまでも同じ話を聞かされて、うんざりしていたというのもあったからだ。
そうして酔ったままご機嫌で家に戻ろうとしていたゾックは、歩いていくうちに徐々に酔いがさめていくのを感じていた。
そうして先程の会話を思い返す。
(お袋の味……か)
実のところゾックは孤児だ。
物心つく前に捨てられて、親の顔だって憶えちゃいない。
幼い頃の食事の大半は、孤児院で出された硬いパンと、野菜が溶けてほとんど具のないスープ。時々小さな肉の欠片が入る事もあったけれど、煮込まれた上でなお硬く、ゾックとしてはそれがある意味お袋の味だったのかもしれない。
そう言う意味でのお袋の味は、正直もう二度と食べたいものではない。
ゾックがいた孤児院はいつだって貧乏で、建物だってボロボロだった。
雨漏りする部屋もあったし、食事も出されはしたけれど、量は少なくて皆いつだって腹を空かせていた。
それでも誰も文句を言わなかったのは、面倒を見てくれていた大人たちも同じように生活していたからだ。自分たちだけが裕福に過ごしていたわけではない。
シスターの手はいつだって荒れていたし、時々血が滲んでいる事だってあった。
孤児院を営んでいた院長先生だって、自分の食べる量を減らして少しでも子供たちに……と分け与えてくれていた。それでも足りなかったのだ。
そんな生活が嫌で、大きくなったらすぐに孤児院を出た。
そうして冒険者になって自分で稼げるようになって、好きな物を腹いっぱい食べる生活ができるようになって。
懐具合に余裕が出るようになってから、かつての孤児院に少しばかり恩返しするつもりで寄付でもしようかと思ったけれど、その頃には孤児院そのものがなくなっていた。
院長先生も年だったし、きっと経営できなくなったのだろう。
そんな思い出しても何も楽しくない幼少期の事が浮かんだせいで、酔いはすっかり消えてしまった。
(まぁ、オデッサにはこどもの頃の話なんてしてないから別にいいか)
お袋の味でもなんでもないけれど、それでもどうしたって肉がたっぷりの料理を何度だって食べたいのだ。
仕事を終えた後で、今日みたいに一緒に行動した仲間と酒場で一杯やる時に食べて帰るというのも考えたけれど、それを毎回やると出費が嵩む。
結婚した後はそういった手段を何度も取り続けるわけにもいかないだろう。
だからこそゾックは家に帰るなり、オデッサにお袋の味を所望した。
俺の母さんが昔作ってくれた、肉たっぷりのガッツリした料理。
思い出すだけで懐かしくなってきたから、どうしても食べたいのだと。
嘘を、吐いたのだ。
最初こそ怪訝そうにしていたオデッサだが、ゾックに熱く語られて仕方なしに肉がこれでもかと盛られた料理を作ってはくれた。
思い描いたかのような、肉まみれな一品。
それをゾックは喜んで食べたのである。
「美味かった。でもお袋はもっと色んな種類の肉を使ってたんだよな。次はもっと色んな種類を使って作ってくれよ」
「えぇ……?」
色んなって、具体的にはどういうやつ? なんて突っ込まれて、ゾックは「色々は色々だよ」としか答えられなかった。当然だ。お袋の味なんて言っていても、実際にはそんなものはないのだから。
ただゾックとしては肉たっぷりな料理が食べたいだけで言ってみたに過ぎない。
そして、一度目でこれだよこれ、というのもな……と思ってしまったのだ。
だって具体的にこういうものと伝えたわけでもないのだ。
そんな手探りで作ったものが、一度目でドンピシャなんてあるはずがない。
だからゾックは、お袋の味にもっと近づけてほしい――なんて。
とんでもない無茶振りをかましたのである。
しょっちゅうは無理よ、とオデッサに言われて、ゾックはわかってるって、と軽く返した。
とりあえず、依頼で大きなヤマを終わらせた時だとか、そういった何かの折にねだればいいだろうと軽い気持ちで。
そのためにゾックは普段の依頼により一層力を入れて解決に動いた。
頑張ったご褒美としてお袋の味をオデッサに強請り、そのたびに小さな要望を付け加えていく。
味付けはもっと濃かったと思うだとか、そういやあの肉が使われてたはずだ、なんて。
あれこれ要望を重ねていって、今のゾックの理想の肉料理を作り上げようとしていたのだ。
けれども終わりは突然訪れた。
「私は貴方のお母さんにはなれないわゾック。
別れましょう」
ある日、オデッサにそう言われてしまったのである。
もっと母さんみたいに、なんてあれこれ要望を盛りすぎてしまったか!? と焦ったゾックはどうにか取り縋ろうとした。
けれどもオデッサの態度は変わらなかった。
首をゆるゆると横に振って、
「貴方の理想のお母さん像を聞かされ続けるのもうんざりなの。
私は貴方の母親じゃない。それなのにあれもこれもお袋お袋って……本当にうんざり。
だから最後に私、貴方のお母さんを見習って出て行く事にするわ。さようなら」
「お、おいっ」
「ギルドで見かけても仕事以外の話はしてこないでちょうだい。私の荷物はもう纏めたから、すぐ出て行くわ。
じゃあね、ゾック」
言い終わる直前で既にオデッサは動いていた。
ゾックがオデッサの腕を掴んで引き留めようとしたものの、全力で振り払われる。
今までそんな風に全力で拒絶される事がなかったせいで、ゾックは一瞬呆然と振り払われた自分の手に視線をやってしまった。
その間にさっさとオデッサは家を出ていってしまった事に気付いて慌てて追いかけようとしたけれど。
その頃にはもうどこにもオデッサの姿はなかったのである。
――その嘘に気付いていなかったわけじゃない。
知っていた。それでも最初は黙って飲み込んだ。
オデッサの実の両親は、オデッサが幼い頃に死んでいる。病気だった。
一人残されたオデッサが頼れる大人は周囲におらず、彼女は孤児院へと身を寄せる事となった。
幸いにしてその後、オデッサを引き取りたいと言ってくれた夫婦がいたので孤児院で生活していたのは極わずかな期間だったけれど。
その短い期間の中で、オデッサに親切にしてくれた男の子がいたのをオデッサは憶えている。
自分だって親がいなくて寂しいだろうに、親を亡くして泣くオデッサの隣にそっと寄り添って、綺麗な花を一輪差し出してくれた。
今にして思えばそれは初恋だった。そう言える。
けれども引き取られた後は、違う町に引っ越してしまって男の子の事なんてすっかり朧気になって、初恋は淡く消えてしまったのだ。
そうして大人になってオデッサは冒険者ギルドで働くようになった。
家を出て違う街で暮らし始めたオデッサに養父母はいつでも帰ってきていいからねと言ってくれて、その言葉があるから頑張る事ができた。
帰る場所がある。それがどれだけ心強かったか。
定期的に手紙を書いて自分は元気だと伝えて、好きな人ができたという事だって書いた。
もしかしたら結婚するかも……なんて夢も見た。
けれど、結婚前に一緒に暮らして、彼の嫌な面が見え始めた。
私、本当に愛されてるんだろうか?
なんだかまるで都合の良い家政婦みたい……
そんな風に思う事も増えてきた。
最初は家事をまかせっきりな事にゾックも悪いな、なんて言ってくれて、ありがとうという感謝の言葉も言っていたけれど。
いつしかオデッサが家事をやるのは当たり前みたいな空気になっていって、オデッサもギルドで遅くまで仕事をして帰った時に、あれができていないだとか、これができていないだとか、文句を言われるようになっていって。
そりゃあ、依頼内容的に魔物退治だとか、命の危険を伴うものがあるのをオデッサとて理解はしている。
それと比べたらオデッサの業務は命の危険は少なくともないので、ゾックから見れば楽な仕事かもしれない。
けれども、決して疎かにしてはいけない仕事だ。
後回しにしてもいいものもあるけれど、基本は早めに済ませておかなければ、後々困る人も出てしまう内容。
依頼によっては終わってもすぐに支払いができないものもあるが、そういうものをできるだけ早く払うための手続きだってオデッサは行っているのだ。
だから、時として帰りが遅くなる事だってあるわけで。
たまに早く帰ってきたのなら、せめて簡単な家事くらいは手伝ってくれたっていいのに……
そう思う事も増えてきた。
せめて服をそこらに脱ぎ散らかすのだけはやめてほしいと伝えても、改善された事はない。
それを毎回拾い集める手間が、小さなストレスへと変わっていく。
なんだか私、召使みたいじゃないの。
そんな風に思う事が増えていった。
お互いに生活のリズムが異なる事が多いから、夜の生活に関しては一緒に暮らすようになってもそこまで増えたりはしなかった。
最初の頃はそれを残念に思っていた気がするけれど、今となってはむしろ良かったと思うようになってしまったくらいだ。
たまにそういった雰囲気になりかけても、明日早いからもう寝るわ、なんて言ってさっさと寝室に移動した事もあった。
明日早くても、一緒に暮らす前はそれでも一緒にいたいと思って夜を共にした事だってあったのに。
不満はあった。
話し合おうとしても、面倒な気配を察知するとゾックは適当な返事で煙に巻こうとするから中々話し合いにならなかった。まぁ確かに話し合えばゾックの家事負担率が上がる可能性があるとなれば、向こうはそれを避けようとするのだろう。
依頼で出かけて、帰りが遅くなる日。ゾックが家にいない日が、逆に安らぐようになっていった事で、オデッサはこのままではいけないと思っていたのだ。
このまま結婚していいのかしら……
嫌いになる前に離れる決心をした方がいいのかも……
でも、やっぱり好きで一緒にいたいと思った相手だし……
そんな風に考えて、現状をどうにか変えようとしてはいたのだ。
だが、ゾックがお袋の味を再現してほしいと言い出した事でオデッサは彼への気持ちが冷めていくのを感じていた。
ゾックとは過去の話をした事はない。
けれどオデッサは知っていた。
ゾックが酔っ払って寝落ちした時の寝言で。
院長先生の名前を呟くゾックに、オデッサは思わず耳を疑ったのだ。
まさかかつて自分が一時期いた孤児院にいたなんて、思ってもみなかった。
寝言に話しかけてはいけないと思いながらも、オデッサはむにゃむにゃと言葉にならない何かを呟いているゾックにあれこれ話しかけて、そうして色々と聞き出した。
幼い頃の面影なんてまるで残っていなかったけれど、それでもゾックが幼かった頃のオデッサにそっと寄り添ってくれた――自分の初恋の相手だと気付いた時の衝撃といったら!
けれども起きて、素面の時のゾックにその話はできなかった。
魔物に住んでいる所が襲われて両親を亡くしただとか、オデッサのように病気で失っただとか、戦争に巻き込まれて……だとか。
孤児というのは別に珍しい話ではない。
だが、それでも世間は孤児だと聞くとあまり良い反応をしないので。
事実ゾックも自分の幼い頃の話をオデッサに直接話した事はなかった。
それなのにこっちから孤児院の話をするのは、まるで勝手に調べ回ったみたいに思われて不快になるかもしれない……と、そう考えて。
ゾック自身の口から語るのを待とうと決めていたのである。
かつてオデッサも養父母について話をした事はあったけれど、しかし孤児院の話はできなかった。
一時期とはいえ自分が孤児、という話をして、遠ざけられたらと考えてしまったので。
自分がその立場であるにも関わらず、相手がそうだと拒絶する、なんていう話は孤児に限った話ではない。
そうでなくともオデッサが孤児院に身を寄せていたのは本当に短い期間で、孤児院で苦労を重ねていた相手からすればオデッサは恵まれた方である。
それなのに自分と同等のように語られたら、お前はそうじゃないだろう、と思う者もいるとオデッサは理解していた。
幼い頃のゾックであるのなら。
そっと隣に寄り添って、花をくれたあの頃のゾックならオデッサを拒絶するとは思っていない。
けれど今のゾックは。
果たしてどうだろう?
そう思ってしまったのだ。
もしかしたらゾックにとって孤児院にいたころの記憶は、さっさと忘れてしまいたい嫌な思い出であるかもしれない。
もしそうだったなら、その思い出を穿り返すような事を言うオデッサに嫌悪感を抱くかもしれない。
そんな風に思って、中々話題にできなかったのだ。
だがそんなゾックがお袋の味だとか言うものだから。
もしかしたら、ゾックが自分の初恋相手だと思っていたけれど、実は違って自分の勘違いなのかもしれないと考えもした。
けれど直接聞く事はできなかった。
だから、ついお酒を飲んで酔って寝落ちしてしまったゾックが寝言を言い始めた時に、またあれこれと話しかけて色々聞いてみたのだ。
その結果同僚の冒険者からの入れ知恵でそんな事を言いだしたのだと知ってしまった。
お袋の味なんて言って、その実全然そんな事のないただ自分の好みに合わせただけのもの。
なんか違うんだよなぁ……なんて言って近づけようとしていた味は、思い出の味ではなく今の好みに反映させようというだけのもので、思い出も何もあったものではない。
確かに肉がいっぱい食べたいとは言われていた。
だが、結婚するならゾックには少しでも健康でいてほしかったし、だからこそオデッサは色々と調べて工夫してきたのだ。別に肉を出さないわけじゃない。ちゃんと出していた。職場で他の既婚者の職員にだって教えてもらって、お肉と一緒に美味しく野菜も食べてもらおうと。本当にゾックのためを思っての事だったのに。
肉は確かに美味しいし、食べたらなんだか力がみなぎってくるけれど、でも肉だけではいずれ、年をとってから身体に色々とガタがくる、とも言われていたからオデッサはそうなってほしくなくて。
ただでさえ冒険者として危険な事もしているのだから、体調を崩してから慌てて野菜だとかを食べるのでは遅いのだ。
けれど、そんなオデッサの気持ちもゾックにとっては余計な事だったのかもしれない。
お袋の味。
そんな風に偽ってまで、自分の好みを押し付けてくるゾックに、なんだか狡いな、と心のどこかが冷めるのを確かにオデッサは感じてしまった。
別れ話をする前にいっそお袋の味だと言って、当時の孤児院で出されていた食事を出してやろうかとも考えたけれど、もうそんな事をするのも面倒だった。
ゾックがかつての自分の初恋相手だと気付いた時は運命だと思ったけれど。
もうあの頃の優しい少年はどこにもいない。
かつての彼と、今のゾックはきっと別人なのだと思って。
オデッサはさっさと彼とお別れしたのである。
なんかもうどうでもいいわ、と思ってからは、本当にゾックの事なんてなんとも思わなくなってしまった。
ギルドで顔を見てももうときめく事もなくなったし、今までの彼に対するイライラも何もなくなってしまった。
完全に事務的な対応しかしなくなったオデッサに何やら言いたげにしていたゾックだが、人前で復縁を願うような事は言わなかった。
けれども人がいない隙を見計らって声をかけてくるものだから、なんだか鬱陶しくて。
「いえあの、本当に私、貴方のお母さんになるつもりはないので。
そんなに母親を求めてるならほら、あの、バブリーカフェに行ってみては?」
考えてみれば家政婦とか召使みたいだなんて思っていたけれど、でもあれどう考えても母親の代わりをしていたようなものよね、という結論に至ったオデッサはとりあえず街の隅にあるカフェをお勧めしておいた。
カフェと言っているが基本的には深夜営業の、要するに酒場である。
バブリーは別にバブルがどうこうではなく、赤ん坊がバブバブする意のバブである。多分ラブリーとも掛けているのだろう。実際名前の由来をママさんに聞いたわけじゃないので完全にオデッサの想像だが。
そこはお店のママさんを筆頭に従業員全員が圧倒的包容力でよしよししてくれるタイプの店で、思う存分オギャる事ができる店だ。
客は皆赤ちゃんなので、いかがわしい行為はない。
酒場にしてはある種健全ではあるけれど、しかし別の意味で不健全。
ちょっとマニアックなお店すぎて、そこを利用していると堂々と宣言するのはちょっと……と言われている店だった。
流石にゾックもその店をお勧めされるまでだとは思っていなかったらしく、あ、これ復縁は無理だな、と理解してくれたらしい。
がくりと項垂れて去っていく後姿を見ても、オデッサの心はこれっぽっちも揺れなかった。
本当に心底どうでもよくなっている。
一先ず養父母には、結婚を考えていた恋人とは破局しました、とだけお知らせしておく。
式には呼んでね、とウキウキしていたのでちょっと申し訳なくはあるけれど、知らせておかなきゃオデッサの恋人だといつまでもゾックの存在をインプットされ続けるのもオデッサ的には困るので。
当分は仕事に打ち込むか……独身寮に戻ってきた事だし、なんて思ってバリバリ働いていたら、養父母からの手紙が届いた。
内容は、恋人との事は残念だけど、貴方がきちんと考えて出した結論ならいいと思う、という内容だった。
それから、別れた直後にこんな話はどうかと思ったのだけれど……とちょっと遠慮がちな一文。
良い感じの人がいるから紹介したい、という内容にオデッサは目を見開いて、それから少し考える。
養父母とは血の繋がりなんて一切ないけれど、それでも引き取ってもらってから今に至るまで、本当の娘のように接してくれた。
そんな両親が自分ときっとお似合いだと思う、という相手だ。
それなりに――いや、かなり信用していい気がする。
ゾックに対しての気持ちは綺麗さっぱりなくなっているし、別れるに至った話だってなんだったらもうオデッサは笑い話にもできる。もっとも話す相手がいないからしていないだけで。
それでも、いつまでも独り身だとそれはそれで面倒かもしれないな……とも考えて。
折角だから会ってみよう。
そう結論を出して、両親へ手紙の返事を書く。
それからギルド長に長期休暇申請したその足で、オデッサは早速手紙を出して、寮に戻ってすぐさま荷造りを開始したのである。
休暇明けに寿退職する事になるなんて今のオデッサは思ってもいないし、退職届を出されて驚く事になるなんてギルド長も想像していない。
皆が驚くまであと――
次回短編予告
婚約が駄目になってしまったけれど、それはマディナにとってそこまでの瑕疵にはならなかった。
気持ちも既に切り替わり、新しい生活を送っている。
そこにかつての婚約者だった男と遭遇し――
次回 婚約破棄をした後の話
どう足掻いても恋愛ジャンルにならない話。




