入学試験と、想定外の風
王立魔法学園の入学試験会場は、張り詰めた緊張感に包まれていました。
国中から集まった受験生たちが、自身の人生を懸けた筆記試験に挑んでいます。
カリカリ、とペン先が紙を走る音だけが、規則的なリズムを刻んでいます。
(……あら。問1から問5までは、教科書を丸暗記すれば解ける問題ばかりね。なんだかつまらないわ。……ふふ、ここは空欄にしておきましょう。その代わり、最後の問10……この魔法陣の書き取り問題、なんだか線が絡まっていて苦しそうだわ)
私は答案用紙に向き合いながら、のんびりと頬杖をついていました。
ラフィ・シエル。それが人間界における私の名前です。
かつての名門、今は没落気味の「シエル公爵家」の養女として、この試験会場にいます。
今日の私の目標は、とってもシンプル。
それは、「平均点」を取って、目立たずに合格することです。
満点は論外です(目立ちますものね)。赤点も駄目です。
私なりの作戦では、退屈な基礎問題を飛ばして、一番難しそうな最後の問題だけを解けば、全体の半分くらいは埋まるはず。
(この魔法陣、教科書通りだと魔力の通り道がガタガタね。こことここを繋げて、無駄な線を消してあげれば……ほら、スッキリして綺麗な形になったわ。これでよし♪)
……残念ながら、私の感覚は人間界の常識から少しズレていました。「基礎が真っ白なのに、超難問の術式を現代魔法学でも発見されていない効率的な形に改良している」答案が、どれほど異質で不気味に映るか、今の私は知る由もありません。
私の本当の名前は、ミリフィオラ・イリス。
人間界の言葉で「虹」を意味する名を持つ、精霊王の娘です。
私がこうして人間界の学園にいられるのは、パパとママ(精霊王夫妻)との、ある「約束」のおかげです。
私が「人間の学校に行きたい!」と言い出した時、あの方たちはもう大騒ぎでした。
『人間界!? 危ないよラフィ! 悪い虫がついたらどうするんだ!』
『そうよ、空気が汚れていたらお肌に悪いわ!』
と、心配のあまり世界を揺るがす勢いだったのです。
そこで妥協案として提示されたのが、**「パパの古い親友であるシエル公爵の養女になること」**でした。
公爵家という「最強のセキュリティ(とパパは思っている)」の中で暮らすなら、という条件で、ようやく許してもらえたのです。
(公爵様は私の正体を知って胃を痛めているみたいですけれど……とにかく、私は目立たず静かに過ごさなくては)
この世界には、二つの「力」があります。
人類が築き上げた論理の結晶**「魔法」と、選ばれた者だけが精霊と心を通わせる「精霊魔法」**。
一般的な**「魔法」は、自身の魔力を燃料にして術式を組み上げるため、それなりの量の魔力を消費します。
対して「精霊魔法」**は、水・風・地・火の4種類の精霊にお願いして力を借りるため、消費する魔力はほんの少しで済みます。
けれど、精霊魔法使いには大きな欠点があるのです。
一つは、体内の魔力回路が特殊なため、**「通常の魔法が一切使えない」こと。
そしてもう一つは、言葉を持たない精霊に魔法のイメージを伝えるのが難しく、「思った通りの現象を起こしにくい」**こと。
だからこそ、現代では不便な力として廃れつつあるのですが……。
(……私の場合は、ちょっと事情が違いますのよね)
私は、精霊王の娘。
イメージを伝えなくても、4属性すべての精霊たちが私の思考を勝手に読み取って、「姫様、これですね!?」と完璧な精度で発動させてしまうのです。
だから私は、先ほどの魔力測定(実技試験)で、測定不能――つまり「魔力なし」の判定を受けました。
もちろん、測定器が壊れて私が怪我をしないように、精霊さんにお願いして数値を隠してもらった結果なのですけれど、おかげで周囲からは「シエル家の面汚し」「魔力なしの無能」なんてヒソヒソ噂されています。
でも、それでいいのです。
「無能」には誰も注目しませんから。
(よし、お気に入りの問題は解き終わりましたわ。次のページへ行きましょう……)
私はペンを置き、紙の端に手を伸ばしました。
その瞬間でした。
「――ッ」
私の指が紙に触れるよりも早く、私の思考を読み取った風の精霊さんが、張り切って先走ってしまったのです。
ふわり、と。
閉め切ったはずの講堂で、物理的にありえない優雅なそよ風が巻き起こりました。
まるで目に見えない執事がそこにいるかのように、私の試験用紙は音もなく、丁寧にめくられてしまったのです。
(……あ、あら?)
やっちゃいました。
思考と現象のタイムラグ。私の「めくりたい」という意志に対し、精霊さんが「お任せください姫様! お手は煩わせません!」と即座に反応してしまったようです。
これだから過保護な眷属たちは困りますね……。
私は心臓が跳ね上がるのを感じましたが、にっこりと微笑んで「無」を保ちました。
何事もなかったかのようにペンを握り直します。
周囲の受験生は自分の答案に必死ですし、試験官も見回りに夢中です。
(……ふぅ。大丈夫、バレていませんわね)
私はほっと胸を撫で下ろしました。
私の背後――斜め後ろの席に座る男子生徒が、今の現象を目撃していたことになど、気づくはずもありません。
***
ラフィの斜め後ろの席。
そこには、輝くアッシュブロンドの髪を持つ美少年――この国の第二王子、クロード・オルティスが座っていた。
彼はふとペンを止め、前方の席をじっと見つめていた。
(……今、前の席の彼女の答案用紙が、勝手にめくれた?)
クロードの優れた動体視力は、ラフィの手が紙に触れていないことを捉えていた。
彼は瞬時に思考を巡らせる。
『魔力光の発生、なし』
『詠唱、なし』
『窓は閉鎖されており、自然風の可能性は極めて低い』
論理的に考えれば、ありえない現象だ。
魔法でもない、精霊魔法でもない。物理的な干渉もない。
ならば答えは一つだ。
(……気のせいか)
クロードは小さく首を横に振った。
連日の受験勉強と公務で、少し疲れているのかもしれない。
あるいは、ただの偶然の風のいたずらだろう。
魔力を持たないと測定されたシエル公爵家の令嬢が、無詠唱で魔法を行使するなど、論理的にありえないのだから。
彼はすぐに興味を失ったように視線を外し、自身の答案へと戻った。
今の違和感を脳内のゴミ箱へと放り込んで。
***
(……よし! 完璧ですわ!)
背後でそんな判断が下されたことなど露知らず、私は最後の記号を書き終えて満足げに頷きました。
私の計算通りなら、これで目立たず普通の学園生活が送れるはず。
まさか、今の小さな風が、のちに完璧王子の脳内で再浮上することになろうとは、この時の私はまだ知らなかったのです。




