第九十一話「八時間の永遠」
病院の待合室は、重苦しい沈黙に包まれていた。
白い壁、消毒液の匂い、遠くで響く足音。全てが現実離れして感じられる。ナブ・エアの一家、アザリア・イシュタル、アジョラ、そして関係者たちが、じっと座って待っている。
八時間。
メルベル・ボムが運び込まれてから、既に八時間が経過していた。
ニイナは母の隣で、呆然と虚空を見つめていた。血で汚れた巫女服は既に着替えさせられているが、手についた血の感触がまだ残っている。
もう少し……いや、自分があの場に残れば。父の代わりに自分が戦えば。
同じ考えが、頭の中を延々と巡っている。
「ニイナ」
アザリアが娘の肩を抱き寄せる。しかし、その腕には力がない。運ばれていく夫の顔を見た時、彼女は悟っていた。
本望だったのだろう、と。
昔の自分なら、メルベルが死ぬことなど断固として拒否した。神に祈り、運命に抗い、あらゆる手段を尽くしただろう。だが今は違う。覚悟がある。それでも、娘にはそれを伝えなければならない。
「お父さんは、きっと満足している」
静かな声で語りかける。
「あなたに歌ってもらえて、満足だったわ」
その言葉が引き金だった。
「嫌だ!」
ニイナは母の手を振り払い、床に転がった。まるでお菓子をもらえなかった子供のように泣き叫ぶ。
「嫌だ!嫌だ!」
そして急に小さく丸まり、首を激しく振る。
アザリアはすぐに娘に寄り添い、抱き起こした。ベンチに座らせ、再び肩を抱く。娘の体は小刻みに震えていた。
ガレス・エアは、養父を見上げた。
「父が……死ぬの?」
声が震えている。つい最近知ったばかりの実の父。
「あの人が……伝説の英雄が?」
信じられないという表情だった。神殿戦士の象徴、千年王を倒した男が、こんなことで。
ナブは重い口を開いた。
「アザリア様の言う通りだ。メルベルは、もう望むことなどなかったはずだ」
そして、静かに続ける。
「ニイナさんのために戦って、最後を……」
「死んでない!」
ニイナが叫ぶ。その声は、待合室中に響き渡った。
「死んでない!死んでない!」
ナブは内心で思った。メルベルの奴も、思い残すことなどないだろう。運ばれていく時の顔は、確かに満足そうだった。戦士として、父親として、全てをやり遂げた男の顔だった。
ナブはガレスの肩に手を置いた。大きな手が、震える少年を支える。
リーナ・エアは、静かに俯いていた。
あの人に、何も恩返しできなかった。
ルカヴィだった時、彼は逃亡者だった。一緒に巡った巡礼の旅。そこで見つけた奇跡。人間に戻れたのも、彼のおかげだった。
一時は、彼と一緒になる夢も見た。でも、ナブと結ばれ、人間に戻り、子供を授かった。もらってばかりで、何も返せないまま終わってしまうのか。
視線を夫と娘に向ける。
彼から預けられた子を、彼と思って育てたことがある――そんな真実は、アザリア様には言えそうにない。
アルマ・エアは兄の手を握りしめていた。
義理の兄、ガレス。血は繋がっていないと知った今でも、やはり兄は兄だった。
その数奇な運命を思う。メルベルとアザリアの実子でありながら、自分たちの家で育ち、そして今、本当の父が死の淵にいる。あの一家の、あまりにも奇妙で凄絶な生き様。
幼い頃の思い出が蘇る。
一緒に泥だらけになって遊んだこと。兄が転んだ自分を助け起こしてくれたこと。夜、怖い夢を見た時に手を握ってくれたこと。
あの頃は、本当の兄妹だと信じて疑わなかった。今は違うと知っても、その記憶は色褪せない。
「兄さん……」
小さく呟く。何と言っていいか分からない。ただ、この手を離したくなかった。
アジョラは、息子の嫁と孫娘を抱きしめていた。そして、静かに涙を流していた。
夫が死んだ時のことを思い出す。彼の最後の言葉は――
『俺たちの人生、三文小説みたいだな』
もう少しマシなセリフはなかったのかと、今でも思う。
でも息子は違った。『歌ってくれ』――いい最後の言葉だった。娘に看取ってもらえて、きっと幸せだったろう。
ありとあらゆることが、奇跡の連続だった。
先に息子が死ぬ?信じがたい。私より先に、夫と息子が逝ってしまうなんて。なぜ私だけが残される?
できることなら、代わってやりたかった。
「メルベル……」
アジョラは呟きながら、アザリアの肩を抱いた。三世代の女たちが、寄り添って泣いていた。
重い扉が開く音がした。
白衣を着た医師が、一人、また一人と出てくる。疲労の色が濃い。八時間に及ぶ手術の跡が、その表情に刻まれていた。
全員が一斉に顔を上げる。
アザリアが立ち上がり、震える声で聞いた。
「主人は?」
医師は厳しい表情のまま答える。
「まだ予断を許しません」
その言葉に、ナブが驚愕の声を上げた。
「なんとか、なったんですか!?」
信じられないという表情だった。あの状態から、どうにかなるというのか。背中は溶け、腹と胸に穴が開き、毒に侵されていた男が。
「あそこから、どうにかなるのか……」
医師は淡々と続ける。
「これから集中治療室で、厳重な監視の下、管理を続けます。次の二十四時間が山場です」
希望なのか、絶望なのか。誰にも分からない宙ぶらりんの答え。
ニイナが顔を上げた。涙で腫れた目が、必死に医師を見つめる。
「生きてる……?」
「はい。今のところは」
その一言で、ニイナは再び泣き崩れた。今度は安堵の涙だった。
「パパ……パパ……」
アザリアは娘を抱きしめながら、医師に頭を下げた。
「ありがとうございます。どうか、よろしくお願いします」
医師は頷き、再び治療室へと戻っていく。
待合室に、再び静寂が訪れる。
でも、先ほどとは違う。絶望的な沈黙ではなく、かすかな希望を含んだ静寂だった。
まだ終わっていない。
メルベル・ボムの物語は、まだ続いている。
窓の外では、祭りの後片付けが始まっていた。血に染まった石畳を、人々が静かに洗い流している。
新しい朝が、ゆっくりと近づいていた。




