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第九十話「母殺しの刃」



毒が全身を巡っていく。


メルベル・ボムは朦朧とする意識の中で、戦士たちの手を借りて必死に移動していた。一歩進むごとに、溶けた背中から血と体液が滴り落ちる。


「しっかりしてください!」


若い戦士が肩を貸しながら叫ぶ。その顔には恐怖と尊敬が入り混じっていた。伝説の英雄が、こんなにも無残な姿で――


「神殿まで、あと少しです!」


別の戦士が援護射撃をしながら道を開く。集まってきた十数名の戦士たちが、メルベルを中心に防御陣形を組み始めた。


「医療班を呼べ!」

「民間人を避難させろ!」

「敵はまだいるぞ、警戒を怠るな!」


怒号が飛び交う中、メルベルは薄れゆく意識を必死に保っていた。気を失えば、ここにいる全員が死ぬ。それだけは、絶対に避けなければ。


娘は無事だろうか。神殿に入ったのは見た。でも、本当に安全な場所にいるのか――


その時だった。


神殿の方から、巫女服を着た青白い顔の女が現れた。


純白の衣装には複雑な刺繍が施され、腰には鈴が下がっている。白い髪が風になびき、氷のように冷たい瞳がこちらを見据えていた。手には装飾的な錫杖。


「くそっ……こんなところで」


メルベルの顔が歪む。最悪のタイミングだった。


イザベラ・カーカラシカ。


「お久しぶりですね、メルベル・ボム」


イザベラの声は、まるで旧友に会ったかのように穏やかだった。しかし、その瞳には狂気が宿っている。


「こんな姿になって。哀れですね」


戦士の一人が即座に反応した。


「化け物め!」


法石銃を構え、連続で発砲する。しかし――


イザベラは優雅に、まるで舞うように左右にステップを踏んだ。全ての弾丸が彼女の体をすり抜けていく。人間には不可能な動き。ルカヴィとしての本性を隠そうともしない。


「無礼ですね」


錫杖を軽く振るう。それだけで、戦士の体が宙を舞った。


「がはっ!」


大通りの端まで、まるで木の葉のように吹き飛ばされる。石畳に叩きつけられた戦士は、ぴくりとも動かない。


「さて、邪魔者は消えました」


イザベラが一歩前に出る。


メルベルは倒れた戦士の直剣を震える手で拾い上げた。重い。普段なら片手で軽々と振り回せる剣が、今は両手でも支えきれない。


「まずい……視界が……」


霞む目で、なんとかイザベラを見据える。背中は酸で溶け、所々白い骨が露出している。腹の傷からは血が止まらない。もう限界だった。


「やっと夫の仇を討てますね」


イザベラが錫杖を振り上げる。美しい顔に、狂気の笑みが浮かんでいた。


「ギシュガルも、きっと喜んでいることでしょう」


メルベルは剣で受けようとしたが、力が入らない。錫杖の一撃で剣が弾き飛ばされ、返す一撃が胸を打った。


「ぐあっ!」


石畳に叩きつけられる。肋骨が折れる音がした。


「メルベル様!」


残った戦士たちがイザベラに向かって突撃する。


「援護しろ!」

「囲め!」

「逃がすな!」


しかし、イザベラには彼らなど障害にもならなかった。錫杖が舞う度に、戦士たちが次々と倒れていく。骨が砕ける音、悲鳴、そして静寂。


あっという間に、立っているのはイザベラだけになった。


「くそ……こんなことで……」


メルベルは血を吐きながら、震える足で立ち上がった。倒れた戦士の剣を拾い、最後の力を振り絞ってイザベラに斬りかかる。


しかし――


「遅い」


イザベラは軽々と剣を受け止め、そのまま懐に入り込んだ。細い手が、短刀を握っている。


「さようなら」


刃がメルベルの胸を貫いた。


「がはっ……!」


ぐりりと刃をひねり、引き抜く。傷口から血が噴水のように吹き出した。


メルベルの体から力が抜け、ゆっくりと膝をついた。もう立てない。視界が暗くなっていく。


イザベラは血に濡れた刃を見つめながら、満足そうに微笑んだ。


「何か言い残すことは?」


勝者の余裕。完全な勝利を確信した者の声。


メルベルは血を吐きながら、なぜか、にやりと笑った。


「お前の夫が……お前に伝えてほしいと、俺に……」


イザベラの表情が一変した。優雅な仮面が剥がれ、素の感情が露わになる。


「何?ギシュガルが?」


メルベルはぼそぼそと呟く。声が小さすぎて聞き取れない。


「何と言ったの?言いなさい!」


イザベラが身を乗り出す。耳を近づける。その瞬間を、メルベルは待っていた。


「ああ、それはな……」


最初に腹に刺されたナイフ。まだ握りしめていた。それを電光石火の速さでイザベラの首筋に突き立てた。


「『あの世で待ってる』とな」


にやりと笑う。最後の悪戯だった。


「きゃあっ!」


イザベラが首を押さえて後ずさる。しかし、ルカヴィの体は簡単には死なない。傷は深いが、致命傷ではない。


「死になさい!」


冷たく言い放ち、剣を振りかぶる。これで終わりだ。メルベルはもう動けない。目を閉じて、最期を待った。


娘よ、すまない――


その瞬間。


鋭い金属音が響いた。


イザベラの動きが止まる。ゆっくりと視線を下げると、自分の胸から剣の切っ先が生えていた。


「え……?」


振り返る。そこには――


金髪の少女が立っていた。巫女服は返り血で赤く染まり、手には神殿戦士の剣を握っている。黒い炎の法力が、全身から立ち上っていた。


「ニイナ……」


イザベラは驚愕の表情を浮かべた。


かつての娘。十三年間育てた娘。忠実な犬だったはずの少女。


その顔には、憎悪と怒りと、そして深い悲しみが入り混じっていた。涙が頬を伝っているが、瞳は冷たく燃えている。


「久しぶりね」


ニイナの声は静かだった。


「そうね、お母様」


イザベラも静かに応じる。


剣を下から上へ、一気に切り上げる。イザベラの腹が裂け、内臓が露出した。


「ぐっ……」


それでもイザベラは倒れない。ルカヴィの生命力は異常だった。


「私の……娘……」


なぜか、イザベラは微笑んだ。血を吐きながら、優しく微笑んだ。


「よく……育ったわね……」


その言葉が、ニイナの何かを壊した。


「お父様のところに行って」


剣を横一閃に振り切った。


一瞬の静寂。


風が吹く。


イザベラの体が崩れ落ちた。しばらくの間、首はまだ胴体についているように見えた。しかし、ゆっくりと、まるで時間が止まったかのように、首が横にずれ始める。


そろそろと、静かに転がっていく。


白い髪が石畳に広がり、青白い顔が最後に見せたのは、なぜか穏やかな表情だった。まるで長い旅から解放されたかのような、安らかな顔。


黒い血が、石畳に静かに広がっていく。


ニイナは震える手で剣を握りしめたまま、かつての母の死体を見下ろしていた。十三年間、この人を母と呼んでいた。優しい時もあった。厳しい時もあった。でも、全て嘘だった。


「パパ……」


はっと我に返る。振り返ると、父が血の海に倒れている。


「パパ!」


剣を投げ捨て、父の元へ駆け寄る。膝をついて、小さな手で必死に傷口を押さえる。


「大丈夫……大丈夫だから……起きて、パパ……」


血は止まらない。父の顔は青白く、呼吸も浅い。


「死なないで……お願い、死なないで……」


涙が止まらなかった。血塗れの手で父の頬を撫でる。


予知夢の通りだった。血に染まった手で、父の顔に触れている。でも、こんな形で実現するなんて――


「医療班!誰か!」


叫ぶが、周りには倒れた戦士たちしかいない。


遠くから足音が近づいてくる。援軍だろうか。でも、もう遅いかもしれない。


「パパ……私、やったよ……あの女を殺した……だから、起きて……」


メルベルの瞼がかすかに動いた。


「に……いな……」


「パパ!」


「歌って……くれ……」


かすれた声。血で濡れた唇が、かすかに動く。


ニイナは嗚咽を堪えながら、震える声で歌い始めた。


「その剣は炎、その瞳は深淵……」


涙で声が詰まる。それでも必死に続ける。


「だが英雄は選んだ、汚名という道を

愛する者のため、全てを捨てて……」


メルベルの表情が、かすかに和らぐ。娘の歌声が、痛みを忘れさせてくれるかのように。


「眠れ、疲れし戦士よ

お前の戦いは終わった……」


歌いながら、ニイナは父の手を握りしめる。冷たくなっていく手を、必死に温めようとする。


「母の腕の中で、愛する者の傍で

永遠の安らぎを、今ようやく得る……」


メルベルの瞼が、ゆっくりと閉じていく。まるで安らかな眠りにつくように。


「これは子守歌、孤独な戦士への

これは約束、必ず帰るという……」


最後の一節が、嗚咽に変わった。


「パパ!パパ!起きて!」


ニイナは泣き叫びながら、父の体に縋りついた。小さな手で父の頬を叩き、胸を揺する。


「お願い!目を開けて!私を置いていかないで!」


血塗れの手が父の顔を撫でる。温もりが、少しずつ失われていく。


「嫌だ!嫌だ!パパ!」


ニイナは父の体にしがみついた。もう二度と離さない。たとえ死んでも――


祭りの喧騒は完全に消えていた。風だけが、血の匂いと硝煙を運んでいく。


千年の戦いは、こうして幕を閉じた。


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