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第八十八話「丸腰の獣」



まずい。


メルベル・ボムの全身に警鐘が鳴り響いていた。


戦場なら、危険を承知で皆がやってくる。間抜けが飛び出して死ぬのも、準備不足の奴が倒れるのも、運のない奴が命を落とすのも――全て織り込み済みだ。皆、覚悟と準備をしてから臨む。


だが今は違う。


自分がこれほど無防備なのは生まれて初めてだった。短刀すら持っていない。靴は妻からもらった柔らかい革の普段履き。つい先刻まで、娘と甘い飲み物を飲み、大道芸に感心していた。何もかもが準備不足。


周囲を慎重に観察する。


いる。感覚で分かる。人間に偽装したルカヴィだ。微かな違和感、不自然な歩き方、獲物を狙う肉食獣の気配。


手にあるものといえば、さっき買った串焼きの竹串。そして片方の手には、娘の小さく柔らかい手。


周りは何の罪もない善良な市民たち。祭りを楽しむ家族連れ、恋人たち、子供たち。


どうすべきか。この人だかりを蹴散らして逃げるか?いや、それではパニックを引き起こす。


狙いは俺とニイナに違いない。敵は用意周到だ。


向こうに神殿が見える。大通りのど真ん中。あそこまで娘を逃がせば、仲間がいる。武器もある。


何かが、全方向から静かに包囲網を狭めてきている。


決断は一瞬だった。


メルベルは娘を抱き上げ、全身で覆うように抱えた。


「通してくれ!」


叫びながら走り出す。人々が驚いたように振り返る。


「あれ、メルベル様?」


そんな声も上がるが、構っている暇はない。神殿に向かって全力疾走。ぶつかって倒れる人もいたが、今は関係ない。


「降ろして!」


ニイナが暴れるが、ガッチリと掴んで離さない。


正面に、すっと色白い男が現れた。


こちらを見ていないようで、確実に視線を向けている。長いジャケットの懐に手を入れている。何か持っている。


左右にも女が一人ずつ。片方は瓶、もう片方はナイフ。


遠くでパレードの列が見える。大道芸と役者たちが広い空間を確保している。あそこまで辿り着けば、娘を神殿まで走らせることができる。


男が瓶の蓋を開けた。


液体がこちらに向かって飛んでくる。ナイフなら避けられるが、液体は無理だ。


メルベルは瞬時に判断し、娘を庇うように背中で受けた。


「ぐっ!」


何かが焼ける。酸か。皮膚が溶ける音と激痛。


ナイフを持った女が突進してくる。一人を蹴り飛ばしたが、もう一人が腹にナイフを突き立てた。


「がはっ!」


血が噴き出す。だが止まらない。止まれない。


女を弾き飛ばし、再び走り出す。もはやなりふり構っていられない。


「パパ!」


ニイナが叫ぶ。父の血が自分の服を染めていく。


パレードの空間に向かって全力疾走。後ろで悲鳴が上がり始める。人を薙ぎ倒しながら追ってくる連中がいる。人間の動きじゃない。跳躍、疾走、獣のような動き。


何かが背中に突き刺さった。矢か、投げナイフか。構わない。走る。


別の場所から銃声が響く。色白い男たちが発砲し始めた。


パニックが一気に広がる。人々が叫び、逃げ惑い、倒れ、踏みつけられる。


メルベルは傷ついた体で、なんとか人の群れを超えて大道芸のパレードが確保していた空間に飛び込んだ。


「なんだ?」

「出し物か?」

「メルベル様?」


騒然とする声を無視して、神殿に向かって走る。


血が足跡を作る。視界が霞み始める。だが娘の重さだけは、確かに腕の中にある。


「パパ、血が……」


ニイナの声が遠くから聞こえる。


「大丈夫だ」


嘘だった。全然大丈夫じゃない。でも、娘を守れるなら、それでいい。


神殿の門が見えてきた。戦士たちが異変に気づいて駆け出してくる。


「メルベル!」


誰かが叫ぶ。


膝が崩れそうになる。でも、まだだ。まだ倒れるわけにはいかない。


娘を、安全な場所まで――


意識が遠のきかける。それでも足は前に進む。獣の本能だけで、ただ前へ、前へと。


祭りは一瞬にして戦場と化した。千年の戦いの、本当の最後が、最悪の形で始まろうとしていた。

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