第八十五話「利害の一致」
メルベル・ボムの家の居間は、若い女性たちの声で満ちていた。
ニイナは満足げに、覚えたばかりの作法でお茶を淹れていく。カップの持ち方、注ぎ方、全てアザリアに叩き込まれた通りに。
アルマ・エアが頻繁に来るようになったのは歓迎すべきことだった。マヤも呼んだ。理由は簡単――この女たちは愚弟に気があるからだ。
「パパ」
ニイナがメルベルに囁く。
「アルマも寂しいはずよ。ガレスも今日はお稽古はお休みにして、アルマのために時間を割いてあげなくては」
「そうだな」
メルベルが優しく頷く。兄を訪ねてきた、育ちを共有した妹を放置して息子を鍛えるわけにはいかない。
素晴らしい。
アルマと目が合う。この少女は明らかに魂胆を理解している。わざと帰りを遅くするような予定を組んでくる、賢い協力者だ。
「今日は泊まっていってほしいわ」
ニイナが提案すると、アルマもマヤも目を輝かせた。
「本当?嬉しい!」
メルベルとアザリアは少し困った顔をしたが、関係ない。
よし、お前ら。そのまま愚弟と永遠に甘いお茶を飲み続けて、カードゲームと性格診断でもしておけ。
ニイナは父の隣に座り、譜面を広げた。新しい曲を教えてもらうのだ。
「ねぇ、ガレス様」
マヤが切り出す。
「今度の聖火祭、一緒に回らない?」
「私も誘おうと思ってたのに!」
アルマが割り込む。
「劇を見に行きましょうよ」
「パレードの場所取りも大事よ」
「仕事がいつ終わるかにもよるけど……」
三人の少女たちがガレスを囲んで小競り合いを始める。ガレスは本当に困っていた。
父親と姉と母と祖母の方に目を向ける。向こうでは、父が娘にリュートを教え、母と祖母が静かに話している。本当の家族。自分もあそこに混ざりたいのに。
微妙な疎外感が胸を締め付ける。
いや、俺を訪ねてきた子たちの対応をしないといけないのは分かる。でも何か変だぞ。なぜ自分だけがこちら側にいるのだろう。
「ガレス様、聞いてます?」
マヤの声で現実に引き戻される。
「ちょっと、あなたたち」
アザリアが諫めようとするが、効果はない。若者たちの賑やかな声は止まらない。
「ひ孫の顔もすぐに見られそうですね」
アジョラがウキウキと呟く。
「お母様!」
アザリアが慌てるが、祖母は楽しそうに笑っている。
ニイナは弟のモテ具合に気分を良くして、父親にビッタリと張り付いた。自分の作った菓子を差し出す。
「これ、作ってみたの」
「お、上手になったな」
メルベルが嬉しそうに頬張る。完璧な焼き菓子だった。成形された一つ一つが整然と盛り付けられ、まるで店で売っているかのような仕上がり。しかし味は控えめで慎ましく、上品な甘さが口に広がる。
父のリュートの音が響き始める。低い歌声。温かい体温。
ニイナにとって、この瞬間は完璧な世界への扉だった。父の大きな手が弦を撫でる度に、金色の小麦畑の中にいるような陽だまりが心を満たしていく。ぬるい桃源郷。麻薬的な陶酔感が全身を包み込む。
メルベルは、ニイナにとって神そのものだった。
その手が頭を撫でる時、世界の全てが正しい場所に収まる。その声が響く時、過去の全ての苦痛が意味を持つ。十五年の空白も、暗い石牢の記憶も、全てはこの瞬間のためにあったのだと思える。
「まあまあ、いいではないですか」
アジョラがアザリアの肩を叩く。
「私とゆっくりしていましょう。講演の内容でも相談しましょうか」
そして小声で付け加えた。
「孫の息子への執着は、少し気になりますけれど……仕方のないことですよ。今まで辛い経験をしてきたのですから」
アジョラは優しく微笑む。
「娘が太い男親の腕に憧れる。微笑ましい家庭の証拠じゃないですか。言い争うのとは比べられませんよ」
アザリアは諦めの溜息をついた。確かに、娘が父親に暴力を振るうよりはマシかもしれない。
アジョラは内心で思った。そう、あんな素敵な息子に孫がビッタリ張り付くのも無理からぬこと。世の父親がしょうもない輝きしか出せないところで、あんな父親がいたら――それは仕方のないことだ。
親の目線で見れば、メルベルは確かに理想的な父親だった。強く、優しく、子供の話に真剣に耳を傾ける。そんな父親を神のように崇める娘がいても、不思議ではない。
「でも、いずれは離れていかなければ」
アザリアが呟く。
「その時が来れば、自然とね」
アジョラは穏やかに答えた。でも内心では、その時がいつ来るのか、見当もつかなかった。
居間は二つの世界に分かれていた。
一つは、ガレスを巡って騒ぐ少女たちの世界。
「ねぇ、劇の演目は『千年王の涙』がいいと思うの」
マヤが提案する。
「古典的すぎない?『月下の約束』の方が今風よ」
アルマが反論した。
「でも、チケット取れるかしら」
「早朝から並べば大丈夫!」
劇の演目から食事の場所まで、細かく計画を立てている。誰が隣を歩くか、誰が腕を組むか、誰が一番ガレスの関心を引けるか、そんな闘争が真剣に繰り広げられている。
ガレスは疲れた目で、姉と父親の方を見た。
なんか向こうは仲良さそうだな。俺も向こうに混ざりたいんだが……
でも、少女たちの壁は厚い。話に割って入る隙もない。
「じゃあ、屋台はどこで?」
「広場の東側がいいわ。あそこは毎年美味しい店が出るの」
「去年のあの蜜漬け林檎、最高だったわよね」
少女たちの会話は尽きない。
もう一つは、ニイナが父と作る静かな世界。
「この音符はどう弾くの?」
「ここはな、こう指を置いて……そう、優しく弦を撫でるように」
メルベルが娘の細い指を導く。リュートの弦が震え、澄んだ音が生まれる。
「上手い、上手いぞ」
父の褒め言葉が、ニイナの全身に電流のように走る。これだ。これが欲しかった。この温もり、この声、この存在そのものが。
「パパ、もう一回」
「何度でもやろう」
メルベルは娘の熱心さに目を細める。こんなに音楽に興味を持ってくれるなんて。親として、これほど嬉しいことはない。
窓の外では夕陽が傾き始めている。
アルマはちらりとニイナを見た。お互いの利害が完璧に一致している。自分は兄を独占でき、ニイナは父を独占できる。実に効率的な取引だ。
「ガレス様、明日も来ていい?」
マヤが甘えた声で聞く。
「え、ええと……」
「私も来るから!」
アルマが宣言する。
ガレスは疲れながら頷いた。
ニイナはその様子を横目で確認しながら、満足げに微笑んだ。
計画通りだ。
そして再び父の世界に没入する。
ニイナの目には、巨大な手のひらが見えていた。自分の前で巨大なリュートを弾く、神のような存在。自分は巨人の腹の上にいて、歌の振動と温もりに包まれている。黄金色の世界が広がっていく。
夢の通りの完璧な世界。
あの冷たい石と雨音響く牢屋の中、幼い自分が時折見ていた幻想。完璧で幸福な世界。これこそが自分の居場所。他には何もいらない。
父の大きな手が、優しく頭を撫でる。
「上手になったな」
「もっと教えて」
「ああ、いくらでも」
アザリアは講演の資料を見ながら、時折居間の様子を観察していた。
娘の執着は相変わらずだが、少なくとも暴力的な衝動は抑えられている。息子も、新しい関係に慣れ始めているようだ。
いびつで、複雑で、普通ではない。でも、これが自分たちの家族の形なのだろう。
夜が近づき、居間のランプが灯される頃、ようやく少女たちの議論が一段落した。
聖火祭の初日はマヤと、二日目はアルマと、三日目は三人で。そんな妥協案に落ち着いたらしい。
ガレスは疲れ果てた顔をしていた。自分のことのはずなのに、一度も口を開かないまま全てが決定されていく。まるで操り人形のようだ。
実の姉への奇妙な恋は終わった。今は普通に仲良くなりたい。父と姉と母と祖母、新しく知った本当の家族と一緒に過ごす時間を想像していたのに、現実はこんなにも違う。
「ガレス様、どう思います?」
マヤの問いかけに、慌てて意識を戻す。
「え、ええと……俺は大道芸がいいかも」
その一言で、少女たちに新たな火が付いた。
「大道芸!素敵!」
「でも混雑するわよ」
「早めに行けば前の方で見られるわ」
「ガレス様と一緒なら楽しいはず!」
議論が再燃する。誰が隣に立つか、誰が解説するか、誰が飲み物を買ってくるか。全てが新たな競争の種になる。
ガレスは深い溜息をついた。もう何も言わない方がいいな。静かにカップを手に取り、お茶を啜る。機械のように、ただひたすら飲み続けることに決めた。
アザリアはアジョラの言葉に頷きながらも、不安を隠せなかった。
娘を見る。メルベルに頭を撫でられて、白目を剥きそうになっている。普段の無表情からは想像できない、完全に蕩けきった表情。まるで麻薬患者のようだ。
メルベルの手のひらから麻薬でも分泌されているのではないか。そんな馬鹿げた考えが頭をよぎる。
「ニイナ、何を教えてもらっているの?」
アザリアが心配して声をかけると、娘は心ここに在らずといった様子で、呆然としている。父の手が頭から離れても、まだその感触を味わっているかのように、虚空を見つめていた。
「……え?」
「リュートよ。何を教えてもらっているのかと」
「ああ……曲……」
その受け答えのあまりの曖昧さに、アザリアはこめかみを押さえた。
ちょっとダメかも。
そして視線を移せば、息子に群がる少女たちの群れ。誰が一番ガレスの関心を引けるか、激しい闘争を繰り広げている。
何か健全じゃないな。
「お茶でも飲みましょうか」
アジョラに促され、仕方なくテーブルに向かう。神殿での講演内容について、簡単な打ち合わせを始める。
「今回のテーマは『聖火と生活』でよろしいですね?」
「ええ、市民向けですから、分かりやすく」




