第八十一話「危険な視線」
メルベル・ボムの家の居間は、若者たちの賑やかな声で満ちていた。
ニイナは手にした甘菓子を見つめながら、内心で溜息をついた。目の前の少年――ガレス・エアをどう扱うべきか、最近悩みの種になっている。
うっとおしい。
しかし父の手前、適当にあしらうわけにもいかない。せっかく手に入れた父の愛情を、ガレスへの態度が原因で失うわけにはいかなかった。
「ニイナ、これも美味しいよ」
ガレスが熱心に菓子を勧めてくる。その視線は明らかに恋する少年のそれだった。
「ありがとう」
淡々と受け取る。悪くはない。甘いものをくれること自体は歓迎だ。ただ、その裏にある感情が煩わしい。
卒業は間近に迫っていた。自分と、忠実な部下――いや、友人と呼ぶべきか――のマヤは、一位と二位で卒業できそうだ。マヤは「自分こそ一番の子分」という顔で、あれこれと世話を焼いてくる。気が利くし、楽だから特に文句はない。
ユナは……まあ、ほどほどの距離感で、たまに遊ぶ程度の付き合いになっていた。
父が期待の眼差しで「友達を家に呼んだらどうだ」と言うから、今日は二人を招いた。彼女なりに精一杯の愛想を振りまいたつもりだ。
「メルベル様のお宅、素敵ですね」
マヤが目を輝かせている。
「本当に……緊張します」
ユナは固くなって、丁寧すぎる挨拶を繰り返していた。
そして問題は、この実の弟――現在の体裁上は、父の友人の息子という立場の少年だ。父との時間を邪魔する存在。どうしたものか。
さらに面倒なことに、マヤもユナも明らかにガレスに好意を持っている。どうぞ好きにしてほしい。自分には関係ない。
一方、メルベルは満足げにその光景を眺めていた。
全てが順調だ。全てが完璧だ。
十五年前、娘がさらわれた。一年前、暗殺者として自分を襲ってきた。可愛い娘の手を、切り落とさざるを得なかった。あの砦でぐったりとしていた娘の姿――
奇跡の連続だった。
今、娘は息子と仲良く土産物の甘菓子を食べ、友人たちと語らっている。ナブという友人がいなければ、この奇跡もなかった。リーナ――かつてのセラフィナがルカヴィから人間に戻ったことも、十六年前にアザリアと出会ったことも、母のことも、全てが奇跡の連続だ。
「昔は、こんな風になるなんて想像もしてなかったな」
メルベルが子供たちに向かって微笑む。
「全てお前のおかげだ」
妻への感謝を込めて、アザリア・イシュタルを見つめた。
「そ、そうね……」
しかしアザリアの表情は硬い。実の息子が実の姉に向ける熱い眼差しを見て、胸の内で警鐘が鳴り続けていた。
これはまずいことになった。
とっとと真実を告げた方がいい。息子が気の毒すぎる。そりゃあ、赤の他人でこんな美少女が――そう、自分にそっくりな美少女がいたら、好きになっても仕方がない。しかし、それは決してしてはいけない恋なのだ。息子が深く傷つく前に伝えなければ。
「ね、今度の都の祭りで、一緒に回らない?」
ガレスが切り出した。
「仕事のシフトが終わったら、街を見て回ろうよ」
「私は父と回るから」
ニイナが即答する。
「ガレス様、私と回りましょう!」
マヤが割って入る。
「え、でも……」
混沌とした会話が続く中、アザリアは密かに通信機を手に取った。ナブの家に連絡を入れなければ。
通信がつながると、ナブの声が聞こえてきた。
『わかっています。もうアルマには話しました。ガレスにもすぐに言います。そこにいるなら、替わってください』
アザリアはガレスを手招きした。
「ガレス、お父様から」
「え?」
ガレスが通信機を受け取る。
『すぐに戻ってこい。大事な話がある』
『ええ?すぐに?わかったよ、帰る帰る……うーん』
通信を切ったガレスは困った顔をした。どうやってデートの約束を取り付けてから戻ろうか。
「あの、ニイナ、また今度……」
「うん、じゃあね」
あっさりとした返事に、ガレスは少し傷ついた表情を見せたが、それでも諦めない。
「絶対また誘うから!」
その必死さを見て、アザリアは深い溜息をついた。
メルベルだけが、息子と娘の「仲の良い」姿を見て、幸せそうに微笑んでいる。この男には、息子の視線の意味がまるで見えていないらしい。
マヤとユナも帰り支度を始める。ガレスと一緒に帰れることに、二人とも嬉しそうだった。
「また来てね」
メルベルが優しく声をかける。
「はい!ありがとうございました!」
若者たちが去っていく。
静かになった居間で、アザリアはメルベルの肩を叩いた。
「あなた、ちょっと話があるの」
「なんだ?」
「ガレスのことよ」
「ああ、いい子に育ったな。ナブに感謝しないと」
「……そうじゃなくて」
アザリアは言いかけて、止めた。どうせこの男に言っても理解できまい。ナブとリーナに任せた方がいい。
ニイナは父の隣に座り直した。やっと邪魔者がいなくなった。これで父を独占できる。
「パパ、リュート教えて」
「お、いいぞ」
メルベルが嬉しそうに楽器を取りに行く。
アザリアは、娘の計算高い笑みを見て、また溜息をついた。




