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第七十八話「初めての感情」



自室に戻ったガレス・エアは、机に向かいながら頭を抱えていた。


まずい。こんな気持ちになったのは初めてだ。


羽根ペンを握る手が震える。目の前に広げられた歴史書の文字が、まるで意味を成さない記号の羅列に見えた。


神殿の頂点に立つ二人――ナブ・エアとセラフィナ・ナイトシェードの息子として生まれた自分には、幼い頃から多くの少女たちが近づいてきた。裕福な商家の令嬢、高位聖職者の娘、将軍家の姫君。皆、美しく聡明で、教養に溢れていた。歌も巧みに歌い、楽器も優雅に奏でた。


だが、自分は父のような立派な戦士になるために、そんな誘惑に惑わされている暇はなかった。修行と勉学に明け暮れ、ひたすら前を見て走ってきた。


それなのに――


「うぅ~……」


ガレスは髪をがしがしと掻きむしった。金髪の少女の姿が、瞼の裏に焼き付いて離れない。


ニイナ・ボム。


神秘的で、得体の知れない、今まで出会ったことのない種類の人間。おそらく自分より遥かに強く、それでいて世間の常識を何も知らない。まるで別世界から舞い降りてきた精霊のような――


「ガレス様、集中してください」


家庭教師の咎める声に、慌てて背筋を伸ばす。


「は、はい!」


しかし、エルサレムの歴史なんて今はどうでもよかった。千年前の王朝の興亡より、もっと重要なことがある。彼女は一体何者なのか。どんな世界で生きてきたのか。そして、なぜ自分の心をこんなにも掻き乱すのか。


それでも長年の習慣は強かった。機械的に手を動かし、課題を片付けていく。今日は客人がいるから最小限で済ませられる。それが唯一の救いだった。


彼女の無知が、また心をくすぐる。


基本的な読み書きと簡単な計算はできるらしい。だが劇場で上演される人気の演目も知らなければ、都で流行している歌も知らない。知っているのは、あの胸を締め付ける「孤独な戦士の子守唄」だけ。


何か話しかければ「なにそれ?」と首を傾げる。その仕草がまた――


今まで出会った令嬢たちは違った。彼女たちは世間で話題になることは何でも知っていたし、会話も巧みに合わせてきた。完璧な教養と礼儀作法で武装した、美しい人形のような存在だった。


でもニイナは違う。


彼女が語った過去といえば、ネズミの這い回る石牢、粗末とも言えない食事、そしてアンデッドたちの顔。


この胸の高鳴りをどうしたらいいのだろう。


「夕食の準備ができました」


使用人の声に我に返る。慌てて席を立ち、階下へと向かった。


食堂には既に全員が集まっていた。大きなテーブルを囲んで、二つの家族が和やかに座っている。ニイナは当然のようにメルベルの隣に陣取り、その反対側にはアザリアが座る。まるで父親を挟んで対峙する母娘の構図だった。


食事が始まると、自然と学校の話題になった。


「私のクラスは、まず基本的な読み書きから始めるところなの」


ニイナが淡々と説明する。


「でも、マヤとユナという友達ができたわ」


「へぇ~、そうか」


メルベルが嬉しそうに頷く。娘に友人ができたことが、心底嬉しいらしい。


「今度、家に呼んだらどうだ?」


「そうね……」


アザリアが素っ気なく応じる。実はマヤとユナの配置については、アザリアとナブ、リーナ、アジョラで事前に話し合って決めたことだった。ニイナの監視と支援のために選ばれた生徒たち。知らないのはメルベルだけだ。


「私なんて成績は学年で一番よ!」


アルマが急に声を張り上げた。ようやく自分が勝てる領域を見つけたとばかりに、胸を張る。


「そうなの」


ニイナが静かに相槌を打つ。そして小首を傾げた。


「じゃあ、分からないことがあったら聞いてもいい?」


「もちろんいいわ!なんでも聞いて!」


年上の美少女から頼られて、アルマは一気に機嫌が良くなった。得意げに胸を反らせる妹を見て、ガレスは苦笑を隠せない。


アザリアだけが、その様子を複雑な表情で見つめていた。


彼女は知っている。先日渡した本の内容を、ニイナは既に完全に暗記していることを。娘は凄まじい天才なのだ。ただ、それを表に出さないだけ。


その証拠に、ニイナの視線は常に父親に向けられている。フォークの持ち方、ナイフの動かし方、グラスを持つタイミング。全てを完璧に模倣していく。


人間性を取り戻したとはいえ、娘の行動は全て計算づくだ。純粋な部分といえば、父親から受け取る無償の愛だけを信じるその心のみ。


果たしてガレスやアルマと上手くやっていけるのだろうか。アザリアの不安は募るばかりだった。


「ニイナ、明日は剣の稽古でもしないか?」


ガレスが思い切って提案した。声が少し上ずっているのを自覚して、慌てて咳払いをする。


「剣の稽古?」


ニイナがメルベルの方を見る。父親は微笑みながら、しかし目だけは真剣に娘を見つめ返した。手加減しろ、という無言の命令。


「いいわ。でも、ちょっと手を怪我してるから……手加減してね」


ニイナが左手首をそっと見せる。ガレスの視線が傷跡に注がれた。確かに、まだ生々しい縫合の跡がある。


なるほど、とガレスは頷いた。それなら今の自分の方が有利かもしれない。あの屈辱的な敗北から、必死に修行を積んできたのだ。少しくらいは男らしいところを見せられるかも――


「わかった。軽くやろう」


ガレスが優しく微笑む。


頬を赤らめながら答える兄を見て、アルマがテーブルの下で舌打ちした。


アザリアは実の姉に熱い視線を送るガレスを見て、胸の内で溜息をついた。ちょっとおかしなことにならないといいけれど……


「あぁ、これだよ…俺が見たかったのは」


メルベルが呑気に微笑み、ナブも満足そうに頷いている。男たちの楽観的な様子に、アザリアはリーナと目を合わせた。


二人の母親は無言の会話を交わす。――子供たちには監視が必要そうね。――ええ、そうみたいね。


賑やかな夕食は続く。ニイナは時折父の顔を盗み見ながら、小さく微笑んだ。これでいい。家族というものは、きっとこういうものなのだろう。


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