第七十七話「発表会」
よし、任務は完了した。
ニイナは内心で呟きながら、ソファの上でぐったりと横たわる二人の子供を横目で確認した。ガレス・エアは額に汗を滲ませ、荒い呼吸を整えようとしている。その隣でアルマ・エアは悔しそうに唇を噛みしめながら、それでも疲労には勝てずに身体を預けていた。
もう少し疲れさせるべきだったかもしれない。だが父からは「やりすぎるな」とも言われている。塩梅というものを、まだ彼女は完全には理解していなかった。
居間に入ってきた時から、ニイナの視線はある一点に注がれていた。部屋の隅、装飾的な棚に立てかけられたリュート。陽光を受けて琥珀色に輝く木目が美しい。おもむろに立ち上がり、その楽器に手を伸ばす。
「あら」
リーナが興味深そうに声を上げた。
「リュートに興味があるの?」
微笑みを浮かべる彼女に、ニイナは淡々と答える。
「学校で習ったの」
ナブ・エアが補足するように説明を加えた。大柄な体を椅子に預けながら、優しい眼差しでニイナを見ている。
「ああ、学校の方針でな。巫女は一人一つ、楽器を演奏できるように練習させるんだ」
「へぇ~」
メルベルが身を乗り出した。娘の知らない一面を発見した喜びが、その表情に溢れている。
「何が演奏できるんだ?ちょっとやってみてくれないか?」
やっと来た。ニイナは心の中で小さく頷く。衆目の前で披露すれば、父と母の面目も立つだろう。場合によっては、アザリアからの無言の攻撃も緩むかもしれない。
リュートを抱え、弦の張りを確かめる。そして静かに前奏を始めた。
最初の一音が響いた瞬間、アザリア・イシュタルとメルベル・ボムの表情が変わった。
あの曲だ。孤独な戦士の子守唄。
ニイナが澄んだ声で歌い始める。
「その剣は炎、その瞳は深淵」
屋敷の広い居間に、少女の歌声が響き渡る。アザリアは確信した。牢屋で渡した楽譜を、この子は必死に練習したのだろう。
「恐れ逃げまどう、民の叫び声
戦う者たちも、塵となりゆく」
メルベルは目を閉じた。娘の声が、直接心臓に響いてくるようだった。
「我らは求めた、真の英雄を
千年王に挑む、炎の戦士を」
歌詞の一節一節が、彼の過去を呼び覚ます。目尻に涙が滲み始めた。
「だが英雄は選んだ、汚名という道を
愛する者のため、全てを捨てて」
ニイナは力を込めて歌った。これが彼女にとって、唯一の豊かな感情の表現方法だった。イザベラは音楽や芸術といった情操教育を一切排除していた。だからこそ、記憶の奥底に眠る幼い頃の思い出――まだ家族と共にいた頃にかすかに聴いた旋律だけを頼りに、彼女は必死に人間性を引き出そうとしてきたのだ。
「予知夢が示した、甘き微睡みの罠
世界を覆う、蜜のような闇」
ガレスは呆然と見つめている。疲れも忘れて、金髪の少女が奏でる旋律に引き込まれていた。なんて綺麗な声なんだろう。まるで天使みたいだ。
「されど戦士は知っていた、運命の鎖を
断ち切る方法は、ただ一つだけ」
アルマは複雑な表情で聴いていた。悔しい。認めたくないけれど、上手い。完璧だった。
「父の剣は折れ、名誉は地に落ちた
臆病者と呼ばれ、裏切り者と罵られ」
メルベルの鼻をすする音が静かに響く。
「それでも彼は微笑んだ、家路を歩みながら
真実を胸に、静かに生きると決めて」
アザリアはそっと夫の肩に手を置いた。温かい掌が、震える肩を包み込む。
「不滅なるものはない、千年王も同じ
物語は終わり、英雄は消えた」
リーナは静かに聴き入っている。この歌詞の意味を、この場にいる大人たちは皆知っていた。
「だが温かき家で、家族と共に
新たな朝を迎える、名もなき男がいる」
ナブは親友の横顔を盗み見た。戦場で鬼神のように戦う男が、今は娘の歌に涙している。こんな情けない顔、誰が想像できただろうか。
「乾杯をしよう、失われた時に
苦難の日々は、今終わりを告げる」
ニイナの指が弦を撫でる。繊細でありながら確かな音色が、歌声を支える。
「血と炎の意思で、愛を守り抜いた
奪われた母の愛を、父の勇気を今取り戻そう」
この一節で、メルベルは完全に崩れた。嗚咽を堪えきれない。隣に座るアジョラが、息子の震える肩をそっと抱いた。
「眠れ、疲れし戦士よ
お前の戦いは終わった」
アジョラは孫娘の歌声を聴きながら、優しい笑みを浮かべていた。息子を慰めるように、その背中をゆっくりと撫でる。
「母の腕の中で、愛する者の傍で
永遠の安らぎを、今ようやく得る」
ガレスは思わず息を呑んだ。なんて美しいんだろう。まるでお空から降ってきた星屑の精霊みたいだ。
「これは子守唄、孤独な戦士への
これは物語、名もなき英雄の」
アルマは歯を食いしばった。くっそー!なんであんな完璧な女の子が突然現れるのよ!神様は絶対不公平だわ!
「これは約束、必ず帰るという
これは希望、愛は全てに勝つという」
最後の音が静かに消えていく。一瞬の静寂の後、ナブが最初に拍手を始めた。
「素晴らしい」
リーナも手を叩きながら賞賛した。
「とても上手よ。やっぱりメルベルさんのお子さんね」
その言葉に、ニイナは内心で満足した。そう、これがしたかったのだ。父の前で、皆の前で、自分の価値を示すこと。
アザリアも優しく微笑んだ。
「素晴らしいわ。よく練習したわね」
そして夫の震える肩を抱きしめる。
「よかったわね、あなた。今度はあなたが直接聞かせてもらえて」
メルベルは「うっ、うっ」と泣きながら何度も頷いた。言葉にならない感謝と喜びが、その涙に込められていた。
ガレスはぼんやりと呟いた。
「いいなぁ...」
可憐な金髪美少女の演奏に、完全に心を奪われている。
アルマは内心で叫んでいた。あんなお空から降ってきた星屑少女みたいなのが兄の周りをウロチョロするなんて!どう考えても神様は不公平すぎる!
ニイナはリュートを静かに置いた。父が泣いている。母が微笑んでいる。皆が拍手している。
点数は稼げたはずだ。これで、もっと父の傍にいられる。




