第七十六話「姉という演技」
ニイナには、父から厳重に言い渡されていたことがあった。
「いいか、ニイナ。ガレスが剣の稽古をしようとか言ってきても、絶対に弟に勝つんじゃないぞ。叩きのめすなんてもってのほかだ」
メルベルは娘の実力を正確に把握していた。もはやナブでも相手にできるかどうか。いや、多分無理だろう。自分以外には止められない戦士が、基本を覚えたばかりのガレスと戦えば、遊び半分でも致命的な差を見せつけることになる。
「姉というのはな、年下に優しくして、時には負けてやることも必要なんだ。特に男は、女に負けるのを嫌がる。わかったな」
ボードゲームのサイコロが転がる音が部屋に響く。
『最高に退屈』
ニイナは微笑みを浮かべたまま、内心でそう思った。本当は父の前でリュートを披露したい。そういえば父のリュートと歌に夢中で、直接教わることも忘れていた。でも今は我慢の時。父がこちらを時折優しく見守っている。それが全てだ。点数を稼ぐ。褒美をもらうためには必要なことだ。
「このマスに止まったら、カードを引けるのね?」
ニイナが丁寧に確認する。ガレスは嬉しそうに頷いた。
「そう!楽しんでもらえてよかった」
純朴な少年の笑顔。父とは違う、無垢な優しさがそこにあった。
アルマは歯噛みした。兄がデレデレしているのが最高に気に入らない。この女をどうにかして痛めつける方法はないものか。
「向こうではどういう生活だったの?ずっとアンデッド相手に剣の練習?」
わざと意地悪な口調で尋ねる。
「おい!」
ガレスが声を荒げた。妹の無礼に焦る。
ニイナは少し考えてから、静かに答えた。
「ネズミ……」
「え?」
「石と苔……真っ暗な中でネズミが這い回っていたわ。石の壁の中で、真っ暗な中で、たぶん一週間くらいかしら?そんなことが何十回か」
重い沈黙が落ちた。
ガレスはうなだれ、アルマも言葉を失った。最悪の囚人でもそこまでの虐待は受けまい。
「剣は、本を与えられた。絵を見て覚えたわ」
ニイナは淡々とサイコロを振り、コマを進める。特に何も感じていない。次は四つ先のマスに止まりたいな、と考えていた。
二人が黙り込んでいるのを見て、父の言葉を思い出す。『二人には早い話だから、これは俺とお前の秘密だ』。少し軽率だったか。
「ここはいいところよ。あなたたちもいい人ね」
適当にフォローを入れる。
「え、えぇ……」
アルマが曖昧に答える。ガレスは妹を睨んでから、明るく提案した。
「そうだ、外で遊ばないか?ボールもあるし」
彼なりの精一杯の気遣いだった。
外に出ると、午後の陽光が眩しかった。ガレスが簡単にルールを説明する。足でボールを蹴って、線を越えたら相手の陣地に入れる。それを繰り返すだけの単純な遊び。
『これで何か得があるのかしら?』
ニイナは首を傾げながらも、とりあえず参加することにした。
アルマが必死に走り回ってボールを蹴る。ニイナは軽く跳躍し、空中で体を回転させながら遠くのボールを正確に蹴り返した。
「なんだあの動き?」
ガレスが目を丸くする。
「や、やるわね……」
息を切らしながら、アルマが悔しそうに呟く。学校では誰にも負けたことがなかったのに。
「運動、得意なの」
ニイナは涼しい顔で答えながら、目の前の鈍重な生き物たちを観察した。
「兄さん!なんとかして!」
アルマが交代を求める。ガレスは冷や汗をかいた。絶対に勝てそうにない。そもそも空中で回転する必要がある遊びだっただろうか?
『弟は女に負けるのが嫌』
父の言葉を思い出し、ニイナは手を抜き始めた。わざとボールを蹴り損ねたように見せかけ、適度に勝ったり負けたりを繰り返す。最終的にガレスが僅差で勝利した。
「ど、どうだ」
息を切らしながら座り込むガレス。
「さすがに男の子には勝てないわね」
ニイナは優雅に微笑む。二人の鈍重な動きを見ながら、内心で評価を下していた。弟という割には遅い。確かに見た目は父に似ているが、中身は似ていない。
家の中から、その様子を大人たちが見守っていた。
「おぉ……全く持って普通の子供たちだ」
メルベルが感動している。
「俺だったらああいうのは無理だろうな」
「あなた、人の気を窺うとかできないものね」
アザリアが皮肉を言う。
「そうか?ナブ、リーナ、お前たちの教育のおかげだ」
メルベルが二人を褒めると、リーナが真面目な顔で尋ねた。
「そういえば、ニイナは聖火を三つ持っているんですよね?彼女の才能からして、全ての聖火も宿せるのでは?巡礼はいつから?」
「もっとゆっくりさせた方がいいんじゃないかな。まだ娘が生きていたことも世間には言っていないし……学校にも通わせないと」
ナブが提案する。
「ガレスとアルマの巡礼も途中でしたからね。三人で行動して親睦を深めるというのは?」
「大丈夫かしら……」
アザリアが首を捻る。
「ちょっと思ったんだけど、ガレスはまだニイナのことをよその家の子だと思ってるわけで。早く言った方がいいんじゃない?ほら、あの様子だと、ちょっと変なことになりそう」
リーナが頷く。
「あぁ……アルマがどう出るか、ちょっとわからなくなってきました」
「明日から『この人はお前の姉だ』というのもな……」
ナブが困った顔をしていると、子供たちが戻ってきた。三人とも喉が渇いたのか、水差しから水を注いで一気に飲み干している。




