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第七十四話「綱引きの夜」



ナブは目の前で繰り広げられる光景に、苦笑を禁じ得なかった。


メルベルが文字通り引っ張りだこになっている。右からアザリアが、左からニイナが、それぞれ夫と父親の腕を掴んで自分の方へ引き寄せようとしていた。


「パパ、こっちでリュートを弾いて」


ニイナが優しく、しかし有無を言わせない調子で父の腕を引く。


「仕事なんて他の人でもできるでしょう?でもパパは一人しかいないわ」


アザリアが即座に反論する。


「何言ってるの。メルベルには責任があるのよ」


「責任って何?私と一緒にいることより大切なの?」


ニイナの声は柔らかいが、その瞳には冷静な計算が宿っていた。十三年分を取り戻すには、今この瞬間から始めなければならない。


二人の女性の間で、メルベルは右往左往していた。額に汗が滲み、困惑の表情を浮かべている。時折ナブの方を見るが、その目は明らかに「助けてくれ」と訴えていた。


「微笑ましいと言えば微笑ましいが……なんかちょっと居心地悪いな」


ナブが小声でリーナに呟く。リーナも複雑な表情で、持参した酒を飲みながらチーズを齧っていた。


「めんどくさい家族ね」


リーナの率直な感想に、ナブは思わず噴き出しそうになった。


アジョラは離れた場所から、孫娘と嫁の争いを楽しそうに眺めている。時折、火に油を注ぐような一言を投げかけては、状況をさらに混沌とさせていた。


「ニイナちゃん、お父さんを独り占めしちゃダメよ」


「おばあさまの言う通りね」


ニイナは丁寧に答えるが、視線は父から離れない。祖母は味方、それは理解している。でも今重要なのは父だけだ。


「でも十三年は長いでしょう?」


柔らかな口調だが、その裏には鋼のような意志が隠れていた。


母娘の言い争いが激化する中、メルベルは完全に板挟みになっていた。


ナブは頃合いを見計らって、話を切り出した。


「なあメルベル、ガレスのことだが」


その名前を聞いた瞬間、アザリアとニイナが同時に反応した。


「パパ、ナブさんとお話があるみたいね」


ニイナが穏やかに言いながら、メルベルの腕をそっと撫でる。


「仕事場で話せばいいのに」


「まだ子供なのに口を挟まないで」


アザリアが諭すように言う。


「そうね、ごめんなさい」


ニイナは素直に謝るが、父の腕から手を離さない。子供扱いされても構わない。今は父の隣にいることが全てだ。


二人の視線がぶつかり合い、見えない火花が散る。


メルベルは隙を見て二人の間から抜け出し、ナブの前のテーブルに座った。


「ガレスがなんだって?」


安堵の息をつきながら尋ねるが、すぐに左右から二人の女性が隣に座る。逃げ場はなかった。


ナブは深いため息をついてから、本題に入った。


「ガレスに『お前たちの息子だ』といきなり言っても、混乱するだけだろう。何事も段階が必要だ」


メルベルが真剣な表情で頷く。ニイナは首を傾げた。


「ガレス?」


「あなたには弟がいるのよ。今はナブさんの家に預けているの」


アザリアが説明すると、ニイナは静かに頷いた。


「そう……」


特に興味はなさそうだった。弟。また一人、父の時間を奪う存在が増えるということか。ニイナは静かに父の表情を観察した。ガレス、その名前を口にする時の父の優しい眼差し。胸の奥で小さな棘が刺さるような感覚。


でも表情には出さない。ただ微笑みを保ったまま、どうやってその子より父の関心を引き続けるか、頭の中で計算を始める。


「あの時の男の子ね」


そう呟いて、それ以上は何も言わない。メルベルの脳裏に、鍛冶屋での光景が蘇る。姉が弟の肩に剣を突き立てた、あの凄まじい「初対面」。不安が胸をよぎった。


「まずは、お前たちがこちらの家に来い。何日か泊まって、それを何回か繰り返そう」


ナブが提案を続ける。


「そのうちにこの家で修行の続きをして、慣れてきたら本当のことを話す。そのくらいがいいんじゃないか?」


「それがいいな」


メルベルが安堵の表情を見せる。


「アルマも一緒に連れてくるわ。あの子たちにとっては、これから大きな変化になるもの」


リーナが優しい口調で付け加える。確かに、いきなり「実は君の姉は君を殺そうとした暗殺者で、でも本当は家族なんだ」などと言われても、子供たちは混乱するだけだろう。


「でも……」


ニイナは言いかけて止める。父が悲しむ顔は見たくない。ただ静かに微笑んだまま、頭の中で考える。また一人、厄介な存在が増えるのか。


「大丈夫よ。ガレスは優しい子だから」


アザリアが娘を安心させようとするが、ニイナは自然に身を寄せてメルベルの腕に触れる。


「パパがいれば何も心配ないわ」


「私もいるのよ?」


「そうね、ありがとう」


礼儀正しく答えるが、心はここにない。母は敵ではないが、味方でもない。父の時間を奪う競争相手。それ以上でも以下でもない。


また母娘の小競り合いが始まる。メルベルは困った顔で、助けを求めるようにナブを見る。


「じゃあ、明日にでも子供たちを連れてくるよ」


ナブは話を切り上げることにした。これ以上ここにいても、家族の修羅場を見せられるだけだ。


「メルベル、お前も大変だな」


立ち上がりながら、同情を込めて言う。


「いや、幸せだよ」


メルベルは疲れた顔をしながらも、心からそう答えた。左右から腕を引っ張られながらも、その顔には確かに幸福の色が浮かんでいた。


「じゃあ、そろそろ失礼するよ」


「え?もう帰るの?」


メルベルが慌てたように言うが、その腕はしっかりと二人の女性に掴まれている。


「パパ、見送りは私がするわ」


「いいえ、私が」


ナブとリーナは逃げるように玄関へ向かった。


外に出ると、夜の冷たい空気が肺を満たす。リーナが大きく息をついた。


「あの家、これからどうなるのかしら」


「さあな。でも、メルベルは幸せそうだった」


「幸せと言うか、大変そうと言うか」


二人は苦笑しながら、夜道を歩き始めた。


背後から、またリュートの音が聞こえてくる。『孤独な戦士の子守唄』だ。きっとニイナがまた催促したのだろう。そして隣でアザリアが不満そうな顔をしているに違いない。


「十三年分の子守唄、か」


ナブが呟く。


「あと何年分歌わされるのかしらね」


リーナの言葉に、二人は顔を見合わせて笑った。


街は静かだった。定期的に巡回する衛兵の姿が見える。イザベラの脅威はまだ完全には去っていないが、この警備体制なら大丈夫だろう。それに、今のアザリアとニイナなら、刺客が来ても返り討ちにするはずだ。


「明日、子供たちにどう説明しようか」


「正直に言うしかないでしょう。少しずつね」


月明かりの下を歩きながら、二人は新しい家族の形について考えていた。

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