第七十二話「最果ての聖火」
岬の先端に、それはあった。
エリドゥの聖火。千年前に失われた最後の一つ。水平線に沈もうとする夕日が、聖なる炎を金色に染め上げている。波の音が絶え間なく響き、潮風が戦士たちの頬を撫でていく。
「これが……最後の聖火」
ナブは呟いた。周囲の戦士たちも、巫女たちも、言葉を失って立ち尽くしている。千年という時を超えて、ついに全ての聖火を取り戻したのだ。
幻想的な光景だった。海に浮かぶ夕日、古代の聖火、そして勝利を収めた神殿の軍勢。歴史に残る瞬間を、誰もが噛みしめていた。
ナブは振り返り、崩れかけた砦を見る。石造りの建物は所々が破壊され、内部は惨状を呈していた。数十体のルカヴィの死体が転がり、床は血の海と化している。壁には戦闘の痕跡が生々しく残り、扉は粉々に砕け散っていた。
間違いなくメルベルの仕業だ。娘を救うために、一人で砦に乗り込み、敵を殲滅した跡。理性を失った父親の愛が生み出した、凄惨な光景。
メルベルの報告によれば、イザベラ・カーカラシカは逃げたという。腹部を貫通する剣を受けながらも、ルカヴィの頑強な肉体で生き延びた。だが組織は完全に瓦解した。モルガンは死に、拠点は失われ、部下たちも散り散りになった。
イザベラは確かに強い。ギシュガルを除けばルカヴィ最強と言われた女だ。だが組織力はない。統率する能力も、大軍を動かす才能もない。いつか必ず捕まえ、死を与えてみせる。それが神殿の責務だ。
だが今は、一つの区切りがついた。千年に及ぶ戦いに、ようやく終止符が打たれようとしている。
ナブは海を見つめながら、メルベルのことを思った。あれだけの重傷を負いながら、治療を受けるとすぐに家に帰っていった。どう考えても絶対安静が必要な状態だったが、本人が大丈夫だと言い張るのだから仕方ない。
今頃は家族と共に、十三年越しの団欒を楽しんでいることだろう。娘を抱きしめ、妻と語らい、失われた時間を少しずつ取り戻している。それはとても尊い時間のはずだ。
だが、一つ問題がある。
ガレス。
ナブは深くため息をついた。あの少年にどう真実を告げればいいのか。自分を実の息子と信じ、父として慕ってくれる良い子だ。メルベルへの憧れも強く、師として尊敬している。
だが彼は、あの家に戻るべきなのだ。本当の両親の元へ。もう隠し続ける理由もない。ルカヴィの脅威は去り、ニイナも家族の元に戻った。ガレスだけを養子のままにしておく理由などない。
「モルガンも死んだ……」
ナブは小さく呟く。本当ならイザベラも仕留めたかった。だが、あの状況でメルベルに他の選択肢はなかった。娘を置いて戦い続けることなど、父親にはできない。
残るは神殿の仕事だ。イザベラの残党狩り、エリドゥの復興、新都市の建設。やることは山ほどある。だが今度こそ、メルベルの家族を守ってみせる。彼らが平穏に暮らせるように、全力を尽くす。
そのわずかな間だけ、ガレスを預かろう。真実を告げる準備が整うまで。メルベルとアザリアが、息子を迎える覚悟ができるまで。
夕日が水平線に沈んでいく。聖火の炎が、夜の闇の中でより鮮やかに輝き始めた。千年の戦いが終わり、新しい時代が始まろうとしている。
ナブは部隊に向き直った。
「撤収準備を始めろ。明日の朝、ここを発つ」
戦士たちが敬礼し、動き始める。最後の聖火を守る部隊を残し、大軍は帰路につく。
風が強くなってきた。潮の香りを運ぶ風が、新しい時代の到来を告げているようだった。




