第七話「穏やかな日々」
一年が過ぎた。
ガルム村の屋敷には、春の柔らかな陽光が差し込んでいる。庭では桜が満開を迎え、薄紅色の花びらが風に舞っていた。
「ニイナ、こっちよ」
アザリアの優しい声が響く。彼女の腕の中で、一歳になったばかりの小さな女の子がもぞもぞと動いている。黒い髪と、母親譲りの大きな瞳を持つニイナは、好奇心旺盛に周りを見回していた。
「まあ、なんて可愛いの」
アジョラが孫の頬を優しく撫でる。その顔は、かつての厳格な聖女の面影はなく、ただの幸せな祖母のそれだった。
「この子の笑顔を見ていると、何もかも忘れてしまうわ」
「母さん、甘やかしすぎですよ」
アザリアが苦笑する。しかし、その表情も穏やかだ。微睡の魔王への変貌など、まるで悪い夢だったかのように、今の彼女は母親としての幸せに包まれている。
庭先から、メルベルが戻ってきた。泥のついた作業着を脱ぎながら、彼は呟く。
「今日の指導も終わった。ワインの苗木も順調に育っている」
村では新しい産業として、ワイン農家の育成が始まっていた。メルベルは、その技術指導を買って出ていた。剣を鍬に持ち替えた生活は、思いのほか性に合っていた。
「お疲れ様」
アザリアが微笑む。メルベルは娘の顔を覗き込んだ。
「ニイナ、父さんだぞ」
小さな手が、メルベルの指を掴む。その力強さに、彼は複雑な表情を浮かべた。
(男じゃなかったか……)
安心したような、少し残念なような、不思議な感情が胸をよぎる。
(いや、これでいいんだ。女の子なら、俺が受けたような地獄の修行をさせずに済む)
父ガレスからの虐待同然の訓練の日々が、脳裏をかすめる。毎朝毎晩の剣術訓練、森に放置される生存訓練、女に近づくなという異常な教え……。
(俺の流派の剣技を、この小さな子に教えるなんて……いや、教えなくていい。この子には普通の幸せな人生を歩んでもらいたい)
しかし、心の片隅で別の声も聞こえる。
(でも、少しは男の子が欲しかったような……いや、医者からはずっと前から女の子だと言われていたし、今更何を)
メルベルは首を振って、考えを追い払った。
「そうだ」
彼は立ち上がり、部屋の隅からリュートを取り出した。
「女の子なら、こっちの方がいいな」
弦を調整しながら、メルベルは静かに歌い始めた。
『闇を纏いし、千年の王よ
その剣は炎、その瞳は深淵……』
『孤独な戦士の子守歌』の旋律が、穏やかに部屋を満たしていく。
アジョラは目を閉じて聴き入った。この歌には、息子の全てが込められている。苦難も、犠牲も、そして今得た平穏も。
アザリアは、ニイナを抱きながら、優しく揺らした。不思議そうに父親を見上げていた娘の目が、次第にとろんとしてくる。
使用人たちも、廊下で足を止めて聴いている。セバスチャンは涙を拭い、マーサは祈るように手を組んでいた。
『眠れ、疲れし戦士よ
お前の戦いは終わった
母の腕の中で、愛する者の傍で
永遠の安らぎを、今ようやく得る』
歌が終わる頃には、ニイナはすっかり眠っていた。小さな寝息が、静かな部屋に響く。
「すごいわ」アザリアが感心したように言った。「この歌、魔法みたい。この子が泣いたら、またお願いするわ」
「子守歌として作られた歌だからな」
メルベルは苦笑した。エクリスが残したこの歌が、まさか本当に自分の子供の子守歌になるとは。
「でも、不思議ね」アジョラが呟いた。「戦いの歌なのに、こんなに優しい」
「きっと、エクリスも分かっていたんだろう」メルベルはリュートを置いた。「戦士にも、帰る場所が必要だということを」
窓の外では、夕陽が山の端に沈もうとしていた。オレンジ色の光が、部屋を暖かく照らしている。
「ねえ、メルベル」アザリアが突然言った。「この子には、普通の子として育ってほしいわ」
「ああ、俺もそう思う」
「剣なんて教えなくていい。歌や踊り、絵画や詩……そういうものを学ばせましょう」
メルベルは頷いた。
「それがいい。この子には、俺たちが歩めなかった道を歩んでもらおう」
アジョラも微笑んだ。
「私たちの時代は終わった。これからは、この子たちの時代よ」
セバスチャンが、夕食の準備ができたことを告げに来た。
「若様、奥様方、お食事の用意が整いました」
「ありがとう、セバスチャン」
メルベルは立ち上がり、眠っているニイナの頭を優しく撫でた。
「この子が大きくなる頃には、ルカヴィの脅威も完全に消えているだろう」
「そうね」アザリアが頷いた。「リーナが人間に戻れたように、きっと全てのルカヴィも」
「治療可能な病気になる日が来る」アジョラが続けた。「その日まで、私たちは静かに見守りましょう」
三人は、眠る赤子を囲んで、しばし無言で佇んでいた。
かつて、彼らは世界の命運を背負って戦った。今は、一人の小さな命を育てることが、彼らの全てだった。
「さあ、夕食にしましょう」
アジョラが立ち上がる。アザリアも、ニイナを抱いたまま続いた。
メルベルは、最後にもう一度リュートを見た。
(エクリス、お前の歌は生き続けている。俺の娘の子守歌として)




