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第六十九話「血塗れの手」



前腕から流れる血で濡れた手が、ゆっくりと上がった。


ニイナの指先が、メルベルの頬に触れる。温かい血が、父の顔を撫でていく。予知夢で見た光景そのままだった。崩れた石の部屋、夕暮れの光、血塗れの手。全てが一致していた。


これが褒美なのだろうか。ニイナの朦朧とした意識の中で、疑問が浮かぶ。モルガンの首だけで良かったのか。イザベラは逃してしまった。また捨てられるのではないか。巨人の体にも槍の傷が幾つも見える。血が滲んでいる。失望されたのではないか。


だが次の瞬間、メルベルが娘を抱きしめた。力強く、しかし壊れ物を扱うように優しく。


「あぁ……」


ニイナの唇から、安堵の吐息が漏れた。許された。本当に許されたんだ。十三年の嘘が剥がれ落ち、やっと巨人を取り戻した。もう何もいらない。この腕の中にいられるなら、他には何も。


メルベルは娘の手を握った。小さな手だった。十三年前、最後に握ったときとほとんど変わらない大きさ。いや、少し大きくなっている。だが相変わらず華奢で、戦士の手とは思えないほど細い。手首には自分が切り落とした傷跡が生々しく残っている。繋ぎ合わされた肉が、まだ完全には癒えていない。


血は止まった。毒の応急処置もした。だが、どうすればいい。この先どうすれば娘を救えるのか。動かしていいのかさえ分からない。


階下から足音が響いてくる。ルカヴィたちがまだ砦内にいる。イザベラも遠くへは逃げていないだろう。ここに留まるわけにはいかない。


メルベルは慎重に娘を抱き上げた。十五歳にしては硬い体だった。通常の少女とは違う、鍛え抜かれた筋肉。だが妻アザリアの柔らかさとも違う、血の繋がった肉親特有の感触があった。壊さないように、失わないように、大切に胸に抱く。


砦から走り出す。朝日が昇り始めた丘への道を、娘を抱えて駆け上がる。体中の傷が悲鳴を上げるが、足は止めない。


あの丘だ。楽譜を見つけた場所。そこへの道の途中に通信機を置いてきた。


ニイナの意識はまだある。時折、小さく呻き声を上げる。呼吸も続いている。大丈夫なはずだ。ここから急変することはないはずだ。そう自分に言い聞かせながら、メルベルは丘を登る。


通信機を起動する。すぐに本部へ繋がった。


「助けてくれ!娘が……ニイナが毒を飲まされた!すぐに医療部隊を!」


声が震えている。今まで何度も死線を潜り抜けてきた男が、娘のことになると取り乱している。


「場所はエリドゥへの丘の上だ!急いでくれ!」


ナブの声が響く。冷静だが、緊張が滲んでいた。


「了解した。すぐに部隊を向かわせる。そのまま待機しろ」


メルベルは通信を切ると、再びニイナを抱きしめた。娘の顔色は青白い。だが目は開いている。虚ろだが、確かに生きている。


「大丈夫だ……もう大丈夫だ……」


それが娘への言葉なのか、自分への言葉なのか分からないまま、メルベルは呟き続けた。


数時間後。


救援部隊が到着した。医療班が素早くニイナの様子を確認する。金髪の少女はぐったりとしているが、意識はある。医師たちは小瓶から活性炭を取り出し、水に溶かしてニイナに飲ませる。メルベルが使った暖炉の炭とは違う、医療用の精製されたものだ。


一人の医師が脈を取り、心拍数を確認する。


「不整脈がある。まだ毒が残っている」


別の医師が注射器を準備する。透明な液体が入った薬瓶から慎重に薬液を吸い上げ、ニイナの腕に針を刺す。メルベルには何の薬なのか分からない。解毒剤か、心臓の薬か、それとも別の何か。


医師たちは前腕の傷を診察する。メルベルの荒い縫合、応急的な薬、血の滲んだ包帯。一人の医師が首を振った。


「ここでできることはもうありません。応急処置は適切でした」


彼らの視線が、床に広がった黒い吐瀉物と、炭の混じった水が残る水筒に向けられる。暖炉の炭を砕いて飲ませたのか。原始的だが、毒物摂取の初期対応としては間違っていない。


医療班は慎重にニイナを担架に乗せる。揺らさないように、しかし迅速に。


その時、一人の医師がメルベルの方を見て凍りついた。


「な、なんだあれは……」


メルベルの腹部から、折れた槍の断片が突き出ている。背中側にも別の槍が貫通している。どう見ても致命傷だ。普通なら即死か、少なくとも意識を保てないはずの傷。


医師たちが顔を見合わせる。


「一体どうなっているんだ?」


だがメルベルは、まるで何事もないかのように周囲を警戒しながら、娘の護送準備を手伝っている。血がズボンを赤黒く染めているが、本人は全く意に介していない。


「な、なあ……あっちの方はいいのか?」


一人の医師が恐る恐る声をかける。


「よくはないが……今あれを抜いたら確実に噴水になるだろうしな……」


別の医師が判断に迷う。立っているのが不思議なレベルの重傷だ。死んでいてもおかしくない。


「メルベル様、その怪我は……止血をするので少し止まってください」


「俺は軽傷だ。娘を移動させてくれ。どこから襲われるか分からない」


メルベルは焦った様子で担架を運ぼうとする。医師たちは呆れと恐怖の入り混じった表情で見つめる。


「……もう面倒だ。法石車両に乗り込むまで見なかったことにしよう」


医師の一人がそう呟き、腹と背中に槍の生えたメルベルを連れて丘の麓へ急いだ。


数時間後。


本部に到着すると、医師たちはニイナの容体が落ち着いてきたことを確認した。心拍も安定し、峠は越えたようだ。更に活性炭を投与し、後方の病院への移送準備が始まる。


メルベルが護送車に乗り込もうとすると、ナブが腕を掴んで止めた。


「待て。お前はその腹から生えてるのをなんとかしてからにしろ」


メルベルのズボンは完全に血で染まっている。車中で応急的な止血はされたようだが、明らかに不十分だ。


「娘が――」


「娘のためにも、お前が死んだら意味がないだろう」


ナブの言葉は正論だった。本部の医師たちが既に手術の準備を始めている。槍を安全に抜き、内臓の損傷を確認し、縫合する。どう見ても大手術が必要だった。


「峠は越えた。後は医師に任せろ」


ナブに肩を押され、メルベルは渋々医療テントへ向かった。だが振り返り、振り返り、娘の乗った車を見つめ続けた。


ナブは医療テントへ向かうメルベルの後ろ姿を見ながら、医師の一人に小声で尋ねた。


「あれ……あれは助かるんですか?」


ベテランの医師が肩をすくめながら、ひそひそと答える。


「思い込みなんですかね?いや、もう死んでると思うんですけどねぇ……」


「……やれるだけのことはします。はい……」


若い医師が困惑した表情で頷く。医師たちはゾロゾロと、渋々テントに入っていくメルベルの後に続いた。まるで死人を手術するような、奇妙な光景だった。

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