第六十八話「父という名の獣」
砦の石造りの廊下が、血と炎で彩られていく。
メルベルはもはや人ではなかった。胴体に突き立った槍が揺れ、切り傷から血が流れ落ちているが、その歩みは止まらない。むしろ加速していく。ルカヴィの一体が剣を振り下ろす。メルベルはそれを素手で受け止め、刃が掌に食い込んでも構わずそのまま相手の頭を掴んだ。
「ニイナァァァ!」
咆哮と共に、ルカヴィを壁に叩きつける。人間を超えた頑丈さを誇るはずの頭蓋が、熟れた果実のように砕け散った。脳漿が石壁に飛び散る。別のルカヴィが背後から槍を突き立てるが、メルベルは振り返りもせずに後ろ手で相手の首を掴み、そのまま握り潰した。
階段を駆け上がる。三体のルカヴィが立ち塞がる。メルベルは減速せずに突進し、最前列の一体を肩で弾き飛ばす。扉を突き破って、ルカヴィの体が石壁を貫通していく。残りの二体が同時に斬りかかるが、メルベルは両手でそれぞれの首を掴み、そのまま頭同士を激突させた。骨が砕ける音と共に、二体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「ニイナ!どこだ!ニイナァァ!」
獣の叫びが砦中に響き渡る。血走った目が、娘の姿を探して彷徨う。廊下の奥から新たなルカヴィが現れる。メルベルは立ち止まらない。相手の剣を腕で弾き、そのまま拳を相手の胸に叩き込む。肋骨が内側に陥没し、ルカヴィは血を吐きながら壁まで吹き飛んだ。
二階への階段。メルベルの体から生えた槍が、壁に当たって折れる。それでも痛みは感じない。感じている暇などない。娘がここにいる。それだけが全てだった。
扉を蹴破る。部屋の中には、明らかに他とは違う気配を纏った女がいた。白い髪、冷たい瞳。イザベラ・カーカラシカ。十三年前、娘を奪った女。
「ニイナはどこだ!」
メルベルが吼える。イザベラは錫杖を構えながら、薄く笑った。
「なんて野蛮な男。夫が負けたわけだわ」
その瞬間、メルベルの視界の端に何かが映った。部屋の奥、床に倒れている小さな影。巫女服を着た少女。腕から剣が生えている。金色の髪が、床に広がっている。
世界が止まった。
次の瞬間、メルベルの全身から許容量を超えた法力が爆発した。赤い炎が体を包み、皮膚が焼ける匂いが立ち込める。だがそんな痛みなど、心に生まれた苦しみに比べれば無に等しかった。アザリアとの古式契約で共有している聖火までもが暴走を始め、部屋の温度が一気に上昇する。
「化け物め!」
イザベラが錫杖で防御の構えを取るが、メルベルの突進は止まらない。炎を纏った拳が錫杖を砕き、そのまま衝撃波がイザベラを吹き飛ばす。白い髪の女は壁を突き破って、隣の部屋まで弾き飛ばされた。
メルベルは剣を掴み、バリスタから放たれた矢のように投げつける。刃は空気を切り裂きながら飛び、イザベラの胸を貫いて背後の壁に縫い付けた。
「ぐっ……化け物……!」
イザベラが血を吐きながら呻く。だがルカヴィの頑強な肉体は即死を許さない。彼女は震える手で剣を引き抜くと、残った部下と共に窓から逃げ出した。
メルベルは追わなかった。今はそれどころではない。
「ニイナ!」
娘の元へ駆け寄る。空虚な瞳が、ぼんやりとメルベルを見上げた。唇が微かに動く。
「……首は……見た?」
その言葉で、メルベルは床に散らばったガラスの破片と、こぼれた液体に気付いた。鼻を近づける。薬品の匂い。毒だ。
「クソッ!」
水筒を取り出し、暖炉から炭を掴み取る。槍で傷ついた掌が炭で黒く染まるが構わない。怪力で炭を粉々に砕き、水に混ぜる。
「飲め!吐き出すんだ!」
ニイナの口を開け、炭の混じった水を流し込む。娘が苦しそうに咳き込む。腹部を強く押し、嘔吐を促す。胃の内容物が床に撒き散らされる。もう一度、新しく砕いた炭を水に混ぜ、飲ませる。
次は腕だ。剣が床を貫通し、娘の前腕を縫い付けている。このままでは失血死する。
「……少し我慢しろ」
鞄から医療道具を取り出す。戦場で何度も使った道具たち。慎重に剣を引き抜く。前腕から血が噴き出すが、幸い橈骨動脈は外れている。持っていた酒で傷口を洗浄し、震える手で縫合を始める。一針、また一針。娘の顔色を確認しながら、丁寧に傷を閉じていく。
薬草を塗り、包帯を巻く。ニイナはその様子を、どこか遠い場所から眺めているような目で見つめていた。
メルベルの体から生えていた槍が、一本、また一本と抜け落ちていく。今になって激痛が襲ってくるが、それでも手は止めない。何としても娘を救わなければ。
「大丈夫だ……もう大丈夫だ……」
炎と血の匂いが充満する部屋、震える声で呟きながら、メルベルは娘の手当てを続ける。




