第六十七話「毒杯」
朝靄が岬を包む中、メルベルは足を止めた。
小高い丘の上、木陰に隠すように置かれた荷物。まだ燻る焚き火の残り火に手をかざすと、かすかな温もりが指先に伝わってきた。数時間前、誰かがここにいた。
荷物を開く。乾いたパンの欠片、水筒、そして厚い革表紙のファイル。震える手でページを開いた瞬間、メルベルの息が止まった。
『孤独な戦士の子守唄』
見間違えるはずがない。自分が何度も口ずさんだ歌。ニイナが生まれた時、アザリアと共に歌った子守唄。
「なぜ……なぜこんなものを」
楽譜を胸に抱きしめ、丘から見下ろす。朝日がまだ昇らぬ薄闇の中、岬の突端で何かが輝いていた。最後の聖火。その傍らに聳える廃墟――イザベラの砦。
もう躊躇している時間はない。メルベルは楽譜を懐に押し込み、坂を駆け下りた。
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砦の二階、見慣れた廊下をニイナは歩いていた。
石壁に染み付いた湿気の匂い、カビと血の混じった空気。十三年間、この臭いと共に生きてきた。だが今日で全てが終わる。
「ニイナ」
振り返ると、白銀の髪を持つ女が微笑んでいた。イザベラ。育ての親。偽りの母。
「母さま」
自然に言葉が出る。何の違和感もなく、まるで数ヶ月前の自分がそのまま戻ってきたかのように。
イザベラの細い指がグラスを差し出す。琥珀色の液体が揺れていた。
「お父様の仇は討てたの?」
「……手こずっています」
ニイナはグラスを受け取り、唇を湿らせる程度に酒を口に含んだ。苦い。いつもと違う苦味が舌の奥に広がる。
「あの卑怯者、戦士たちに守られて」
「そうよね」
イザベラが自分のグラスを傾けた。その仕草は優雅で、まるで宮廷の貴婦人のようだった。
「でも、あなたならできるわ。私の完璧な娘」
冷たい手がニイナの頬に触れる。氷のような感触。巨人の手とは何もかもが違う。温もりのない、死んだような手。
「今から忍び込みます。奴の寝首を掻いて、一人でも多く道連れに」
「ええ、そうして」
イザベラが踵を返す。青白い首筋が露わになる。取り巻きの男たちも油断している。
今だ――
剣の柄を握った瞬間、指先から感覚が消えた。痺れが腕を駆け上る。剣が手から滑り落ち、石床に甲高い音を立てて転がった。
「あら」
イザベラの声には驚きも失望もない。まるで予定通りとでも言うように。
次の瞬間、横から蹴りが入った。肋骨が軋む音。体が宙を舞い、壁に叩きつけられる。骨が折れる鈍い音が体の内側から響いた。
「がっ……」
息ができない。起き上がろうとするが、体が言うことを聞かない。
「十三年よ、ニイナ」
イザベラが見下ろしている。その瞳には何の感情もなかった。
「十三年もかけて育てたのに、結局モルガンを殺すような裏切り者になるなんて」
唾が飛んできた。顔に当たる。拭うこともできない。
「毒よ。でも安心して。すぐには死なない。ゆっくりと、苦しみながら死んでいくの。それがあなたへの最後の愛情」
視界が歪む。骨が折れた痛みが全身を貫く。
倒れたまま、ニイナは剣に手を伸ばそうとした。指先が柄に触れかけた瞬間――
護衛の剣が振り下ろされた。刃が右腕を貫き、石床に縫い付ける。肉を裂き、骨を砕く音。激痛が走る。
だがニイナは、無表情だった。
護衛を見上げる。イザベラを見る。その瞳には何の感情もない。痛みなど、とうに慣れている。
「私にもう……母親はいない」
呻きながら、ニイナは呟いた。
「あの女も違った……お前も違う……」
呪いのような恨み言が口から漏れる。
「巨人の腕に……私は……帰る……」
「何それ?」
イザベラが首を傾げた。心底不思議そうな顔で。
その時、轟音が砦を揺るがした。
入り口の扉が吹き飛ぶ。赤い炎が廊下を照らし出す。
「ニイナ!」
叫び声が響く。
ニイナは微笑んだ。
来た――
巨人が、来た。




