第六十六話「最後の賭け」
夕闇が濃くなる中、ニイナは岩陰に身を潜めていた。
イザベラの砦が近い。記憶にある通りの場所だ。だが、想像以上にルカヴィが多い。神殿軍の進撃を受けて、残存兵力が集結しているのだろう。
左手を動かしてみる。まだ自由が利かない。メルベルに切断された傷は、完全には癒えていない。
「……難しいな」
小さく呟く。
単純に突入すれば、返り討ちに遭う。イザベラは強い。それは身をもって知っている。しかも今は護衛に囲まれているはずだ。
ならば、騙すしかない。
「ただいま、母さま」
そう言って近づき、油断した隙を突く。背後から一撃で仕留める。それなら可能かもしれない。
だが問題は脱出だ。イザベラの首を持って、ルカヴィの追撃をかわしながら本陣まで戻る。首は重い。左手が使えない今の状態では――
「いや、やるしかない」
ニイナは首を振った。これが最後のチャンスだ。神殿軍が近づけば近づくほど、イザベラの警戒は強まる。今しかない。
暗闇の中、小さく歌を口ずさむ。
『孤独な戦士の子守唄』
もう楽譜は見えない。だが、頭の中には完璧に刻まれている。音符の一つ一つ、歌詞の一言一句まで。
歌いながら、記憶が蘇る。
巨人の夢。今はもう鮮明に思い出せる。確かにいた――年上の自分、アザリア。彼女が赤ん坊の自分を抱いていた。優しく、温かく。
「……でも今は違う」
ニイナの声が硬くなる。
あの女は自分を冷たい牢屋に閉じ込めた。毛布一枚くれなかった。自分を見下し、嘲笑った。それは許せない。
だが――
「私が化け物だからだ」
自嘲的な笑みが浮かぶ。
あの学校の少女たちのように、普通の生活など送れなかった。ネズミが這い回る石壁の中、暗闇で飼育された。痛みに耐えるため麻薬を打たれ、骨を折る訓練を受けた。そして、人を殺した。何十人も。
「私は化け物……」
アザリアが自分を巨人から引き離そうとする理由は分かる。父親の肩に剣を突き立てる娘など、誰が欲しがるだろう。
「もう、誰もいない」
呟きが夜風に消える。
巨人も自分を拒絶した。あの恐怖に歪んだ顔。イザベラの元に戻っても、待っているのは人殺しの日々。誰も自分など気にかけない。
「これが最後だ」
ニイナは拳を握りしめた。
イザベラの首を持って帰る。そうすれば、褒美がもらえるはずだ。
昔を思い出す。イザベラは試験に合格した時、甘いものをくれた。笑顔をくれた。基本は変わらない。巨人も――メルベルも、きっと笑顔をくれる。また腕の中に抱いてくれる。リュートを弾いて、歌ってくれる。
「モルガンだけじゃ……足りない」
決定的な功績が必要だ。イザベラの首。それが全てを変える切り札。
疲労が限界に達していた。ニイナは岩陰で眠りについた。
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夢が始まった。
予知夢だった。
自分が男の腕の中で眠っている。温かい。安心できる。完璧な世界。
「ニイナ」
男が耳元で囁く。メルベルの声。そして歌が聞こえる。あの子守唄。
男の顔を見上げる。優しい表情。だが、その頬を涙が伝っていた。泣いている。なぜ?
周りは夕暮れに染まった崩れた石の部屋。どこか懐かしい場所。
自分は穏やかに、父親の顔を撫でた。涙を拭おうとして。
その時、気づいた。
自分の手が、血で濡れている。べっとりと、真っ赤な血。父の頬に、赤い跡がついた。
誰の血? 自分の? それとも――
夢はそこで終わった。
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目が覚めると、夜は更に深まっていた。
予知夢の余韻が残る。父の涙。血塗られた自分の手。あれは何を意味するのか。
考えても仕方ない。ニイナは立ち上がった。
星が瞬いている。遠くから、神殿軍の松明の光が見える。時間がない。
剣を確認する。左手の具合を確かめる。まだ自由は利かない。
「……行くしかない」
足音を殺して、移動を開始した。




