第六十三話「狂気の終焉」
地下水路の奥深く、カビと薬品の臭いが混じり合う空間で、モルガンは試験管を振っていた。
「ふむ、ふむ……やはりこの配合では駄目か。いや、待て待て、温度が問題なのか? それとも触媒の純度? ああ、素晴らしい、素晴らしい謎だ」
独り言を呟きながら、彼は次の実験に取り掛かる。白髪が乱れ、目は血走っている。十五年間、この地下で研究を続けてきた狂気の科学者。
「人間の限界を超える……それこそが真理への道。肉体は脆い、精神は弱い。だが、私の薬があれば……私の理論があれば……」
周囲には、彼を守るアンデッドとルカヴィが配置されている。腐った肉の塊、骨だけの戦士、人間に偽装したルカヴィたち。彼らはモルガンの実験体であり、護衛でもあった。
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その頃、神殿の特殊部隊が地下道を進んでいた。
「静かに進め。敵に気取られるな」
隊長が手信号で指示を出す。精鋭たちが音もなく前進していく。
彼らは知らない。この作戦の裏側を。リーナ、かつてルカヴィの幹部だった女が、人間に戻ってアザリアの側近となり、その知識でモルガンの居場所を特定したことを。それは最高機密であり、メルベル以外には知らされていない。
「この先に反応あり」
斥候が報告する。青白い光が漏れている。法石の照明だ。
「よし、突入準備」
隊員たちが剣を抜く。
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ニイナは別の道を進んでいた。
黒い炎を纏いながら歩く彼女を見て、アンデッドたちは道を開ける。腐った死体も、骨の戦士も、彼女を味方と認識していた。
「おや?」
下っ端のルカヴィが声をかけてきた。人間の姿をしているが、目の奥に狂気が宿っている。
「イザベラ様の……確か、ニイナ様でしたね」
ルカヴィは警戒しながらも、敬意を示す。イザベラの部下は、彼らにとって上位の存在だった。
「モルガンはどこ?」
ニイナが冷たく問う。
「研究室におられますが……何か?」
「移動させる。母の命令」
嘘は簡単に口から出た。イザベラを母と呼ぶことに、もはや違和感はない。それが自分の真実だと、長年信じ込まされてきたのだから。
「なるほど、確かに最近、神殿の動きが活発ですからね」
ルカヴィは納得したように頷いた。
「こちらです。ご案内します」
数体のルカヴィが先導する。薄暗い通路を進みながら、ニイナは考えていた。
モルガンを殺す。その首を持ち帰る。そうすれば、メルベルは――父は認めてくれる。十三年前に失った娘の仇を討った功績として。
「急いで」
ニイナが促す。遠くから戦闘音が聞こえてきた。特殊部隊が近づいている。
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研究室の扉が開いた。
モルガンは振り返りもせずに言った。
「何だ? 実験中だぞ」
「モルガン様、イザベラ様の部下が」
「ああ、イザベラの犬か」
モルガンはちらりとニイナを見て、すぐに試験管に視線を戻した。
「で? 何の用だ」
「ここは危険。脱出を手伝えと言われた」
ニイナの言葉に、モルガンは鼻を鳴らした。
「はん、あの女らしい。自分は安全な場所から指示だけ出して……まあいい、どうせここの研究も限界だ」
彼が荷物をまとめ始めた、その時――
「敵襲!」
ルカヴィの叫び声と共に、特殊部隊が雪崩れ込んできた。
「神殿の名において、貴様らを討つ!」
剣戟の音が響く。ルカヴィたちが応戦する。狭い空間で激しい戦闘が始まった。
「くそ、もう来たか!」
モルガンが慌てて逃げようとする。だが――
瞬間、ニイナの黒い炎が爆発的に広がった。
「え?」
モルガンが振り返る。その首が、胴体から離れた。
一瞬の出来事だった。笑みを浮かべたまま、モルガンの首が床に転がる。まだ実験の続きを考えているかのような、恍惚とした表情のまま。
「モルガン様!」
ルカヴィたちが叫ぶ。混乱が広がる。
ニイナは剣に黒い炎の法力を纏わせた。刃が不気味に輝く。
次の瞬間、彼女は動いた。
最初のルカヴィの胴体が真っ二つに裂けた。振り返る間もなく、二人目の首が飛ぶ。三人目が剣を振り上げたが、ニイナは身を低くして躱し、その腹を横一文字に切り裂いた。
「貴様! 裏切り――」
叫びかけたルカヴィの言葉は最後まで紡がれなかった。黒い炎を纏った刃が、その喉を貫いていた。
別のルカヴィが背後から斬りかかる。ニイナは振り向きもせずに身を捻り、逆手に持った剣で相手の腕を切断。返す刀で胸を貫いた。
瞬く間に、護衛のルカヴィたちは切り刻まれた肉塊と化していた。
特殊部隊も唖然として立ち尽くしている。
「お前は……」
隊長が剣を構えたまま問う。
ニイナはモルガンの首を拾い上げ、隊長に投げ渡した。
「これを持って帰って。ニイナが討ち取ったと、メルベル様に伝えて」
「は? どこの所属だ?」
隊長が困惑する。隊員たちも顔を見合わせる。
「別働隊か?」
「巫女の戦士部隊? たまにいるよな、ああいうの」
ニイナは苛立ったように言った。
「分かったの? ニイナが殺したの。それを持って帰って」
「いや、待て。君の所属は――」
「私はイザベラを殺しに行く。あなたたちは本部に戻ればいい」
そう言い残して、ニイナは走り去った。黒い炎の残滓だけを残して、闇の中に消える。
特殊部隊は、死体に囲まれて立ち尽くしていた。
隊長はモルガンの首を見下ろす。まだ笑っているような表情。狂気の科学者の、最期の顔。
「……一体、何だったんだ?」
隊員の一人が呟く。
「とにかく、これは重要な証拠だ。本部に持ち帰る」
隊長が決断を下した。
「あの娘のことも報告しなければ……ニイナ、と言ったか」
「でも隊長、信じてもらえますかね? いきなり現れて、標的を殺して、消えたなんて」
「信じる信じないは上の判断だ。我々は見たままを報告する」
彼らは撤収を始めた。任務は完了した。だが、釈然としない気持ちが残る。
あの少女は何者だったのか。なぜイザベラを狙うのか。そして、なぜメルベル様の名を出したのか。
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ニイナは地下道を走っていた。
一つ目の手柄は立てた。モルガンの首。だが、まだ足りない。
次はイザベラだ。育ての親。嘘で塗り固めた愛情を注いだ女。彼女を殺せば、完全に過去と決別できる。そして、メルベルは――父は――
「巨人……」
走りながら呟く。
楽譜が胸の内で温かい。『孤独な戦士の子守唄』。これを完璧に歌えるようになれば、きっと。
手柄と、歌と。二つを揃えれば、あの温かい腕の中に戻れる。現実の世界で、夢のような完璧な場所を。
ニイナは闇の中を疾走した。
次の標的に向かって。最後の標的に向かって。




