第六十二話「英雄譚と影」
エリドゥの外縁部では、掃討作戦が進行していた。
十五年前の大戦でギシュガルが倒されて以来、この地には散発的に生き残りのルカヴィが潜伏していた。今回の遠征は、その最後の残党を一掃し、エリドゥを完全に人間の手に取り戻すためのものだった。新たな都市建設の計画もすでに動き出している。
補給部隊は前線から離れた場所で、せわしなく動き回っていた。傷ついた兵士を運ぶ者、武器を修理する者、食料を準備する者。
ニイナは鍋をかき混ぜながら、周囲を観察していた。夕暮れが近づいている。そろそろ頃合いだ。
軍隊が掃討作戦を展開している間に、単独で動く。モルガンのアジトは記憶にある。イザベラから聞かされた場所――エリドゥの地下に張り巡らされた古代の水路網。そこに潜伏しているはずだ。
「ナナ! ぼさっとしてんじゃねえ!」
班長の怒鳴り声が飛んでくる。ニイナは無表情に頭を下げ、作業に戻った。
「うわっ! 痛てぇ! 畜生!」
担架に乗せられた兵士が騒いでいる。脚に深い傷を負っているが、命に別状はなさそうだ。それでも重傷には違いない。
「しっかりしろ! もうすぐ野戦病院だ!」
仲間が必死に励ましている。
「くそ、油断した……まさかあんなところに潜んでるなんて」
「いいから喋るな! 体力温存しろ!」
兵士たちが慌ただしく通り過ぎていく。その際、負傷兵のカバンと剣が地面に落ちた。皆、担架を運ぶのに必死で、落とし物に気づかない。
ニイナは素早く近づき、それらを回収した。カバンの中身を確認する。乾パン、水筒、包帯、火打ち石。十分だ。
剣を抜いてみる。刃こぼれした安物。かつて使っていたイザベラから与えられた名刀に比べれば、玩具のようなものだ。だが、ないよりはましだ。
「……これで充分」
小さく呟いて、ニイナは夕闇に紛れて姿を消した。誰も気づかない。下働きの女が一人いなくなったところで、この混乱の中では誰も気にしない。
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前線では、神殿軍が着実に掃討作戦を進めていた。
「隊列を崩すな! 法力は温存しろ!」
ナブの号令が響く。訓練された兵士たちが、整然と残党を排除していく。
もはや組織的な抵抗はない。十五年前にギシュガルが倒れてから、ルカヴィは統制を失っている。今回はその残りカスを掃除するだけだ。
焚き火を囲んで、兵士たちが夕食を取っていた。
「なあ、聞いてくれよ」
ベテランの兵士が、若手たちに向かって語り始めた。顔には幾つもの傷跡がある。十五年前の大戦を生き延びた証だ。
「十五年前のエリドゥ大戦を知ってるか?」
「聞いたことはありますけど……」
若い兵士が答える。まだ顔にあどけなさが残る。
「今回みたいな掃討戦じゃなかったぜ。あれは本物の地獄だった」
ベテランは遠い目をした。記憶の中の光景を思い出しているようだ。
「空から降ってきたんだ。味方の内臓が」
「は?」
「敵の巨大な怪物がな、俺たちの部隊を丸呑みにしやがった。そいつが爆発した時、中にいた奴らの……まあ、想像に任せるよ」
若手たちの顔が青ざめる。
「血の雨が降った。文字通りの血の雨だ。俺の隣にいた奴は、上官の腕が頭に落ちてきて、そのまま気絶しちまった」
別のベテランが話に加わる。
「焼けた死体の臭いが今でも忘れられねえ。あの時は本気で、俺たち全滅すると思った」
「でも、勝ったんですよね?」
若手が恐る恐る尋ねる。
「ああ、奇跡が起きた」
ベテランは深く頷いた。
「ある瞬間、敵の攻撃がピタリと止まったんだ。こっちに向かってきていたゾンビどもが、まるで糸が切れた人形みたいに動かなくなった」
「何が起きたんですか?」
「その時は訳が分からなかった。俺なんか、ゾンビの口がここまで迫ってたんだぜ」
ベテランは自分の鼻先を指差した。
「腐った歯が見えるくらいの距離だ。あと一瞬で噛み殺されるってとこで、そいつが止まった」
「信じられない……」
「ああ、俺も信じられなかった。でも、理由はすぐに分かった」
ベテランは遠くの城を指差した。夕暮れの光に照らされて、黒いシルエットが浮かび上がっている。
「あの城が、夕焼けよりも赤く燃えたんだ。いや、燃えたっていうより、光ったっていうか……とにかく、すげえ光だった」
「それは……」
「メルベル様がギシュガルを討ち取った瞬間だ」
静寂が流れた。若手たちは息を呑んでいる。
「たった一人で城に乗り込んだんだ。援軍も連れずに、単騎で。まさに孤独な戦士だ」
別のベテランが続ける。
「俺たちが城に入った時、最上階の玉座の間に、ギシュガルの死体があった。そして折れた剣。床には血文字でこう書いてあった」
「何て?」
「『臆病者メルベルは逃げた。英雄ナブ、エアラがギシュガルを討ち取った』」
若手たちが困惑する。
「どういう意味ですか? メルベル様が倒したんじゃ……」
「そこが面白いところさ。実はな、当時は神殿内部に裏切り者がいた。ルカヴィに通じてる奴らがな」
ベテランはにやりと笑った。
「上層部は、そいつらを炙り出すために、わざとそういう噂を流したんだ。メルベル様は臆病者だってな。それを信じて調子に乗った裏切り者どもは、見事に尻尾を出した」
「なるほど……」
「全部、最初から計算済みだったのさ。メルベル様は自分の名誉を犠牲にして、神殿の浄化に協力したんだ」
若い兵士たちの目が輝いた。
「すげえ……本物の英雄じゃないですか」
「ああ、そうさ。その英雄が、今回の総指揮官なんだ」
ベテランは声を落とした。
「でもな、メルベル様にも悲劇があった」
「悲劇?」
「十三年前、まだ二歳にもならない娘さんがいたんだ。それが、裏切り者の手引きでルカヴィに襲われて……」
ベテランは首を振った。
「殺されちまった。家を襲われて、奥方と娘さんが……まあ、奥方は生き延びたが、娘さんは……」
「それで公式には?」
「死亡、ってことになってる。メルベル様は今でも、その仇を討つために戦ってるって話だ」
若手たちは神妙な顔をした。
「だから今回、残党を一人残らず殲滅するって言ってるのか……」
「そういうことだ。十五年前の総決算。これで完全にエリドゥを制圧して、新しい街を作る。メルベル様にとっても、俺たちにとっても、最後の戦いだ」
ベテランは立ち上がって伸びをした。
「まあ、あの地獄に比べりゃ、今回なんてピクニックみたいなもんだ。お前らひよっこは右往左往してるがな」
得意げに笑うベテランたち。若手は複雑な表情で彼らを見つめる。
誰も知らない。その「死んだ」はずの娘が、今まさに、単独で敵地の奥深くへと向かっていることを。
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ニイナは廃墟の中を進んでいた。
月のない夜。星明りだけが頼りだ。だが、彼女にとっては充分だった。エリドゥの地理は頭に入っている。イザベラから何度も聞かされた。
十五年間、ゲリラ的に生き延びてきたルカヴィの残党。その中でも、モルガンは特別な存在だった。ギシュガル亡き後も、密かに研究を続けている狂気の科学者。
古代の水路への入り口。崩れた神殿の地下にある。そこを降りれば、モルガンの隠れ家に辿り着く。
足音を殺して歩く。時折、遠くから戦闘の音が聞こえる。神殿軍がまだ掃討作戦を続けているのだろう。好都合だ。注意がそちらに向いている間に、事を済ませられる。
楽譜を胸に押し当てる。紙の感触が、決意を新たにさせる。
「手柄を立てる……そうすれば……」
巨人の腕。温かい場所。それを取り戻すために、何でもする。モルガンの首を持って帰れば、きっとメルベルは――父は振り向いてくれる。
いや、今は考えるな。目の前のことに集中しろ。イザベラの教えを思い出す。感情は邪魔だ。必要なのは結果だけ。
崩れた柱の陰に身を潜める。前方に、地下への階段が見えた。苔むした石段が、暗闇の中へと続いている。
ニイナは剣を抜いた。安物の刃が、かすかに光る。




