第六十一話「軍隊という迷宮」
軍の補給部隊が集結する広場の片隅、巨大な鍋が並ぶ炊事場で、下働きの女たちが忙しく立ち働いていた。その中に、一人の少女が紛れ込む。ニイナだった。
薄汚れた布を纏い、髪を無造作に結んだ姿は、どこにでもいる貧しい娘に見えた。手際よく野菜を洗い、薪を運ぶ。その動きに無駄がない。
「おい、そこの!」
太い声が響いた。炊事場の班長だ。豚のように太った中年の女で、常に怒鳴り散らすことで知られている。赤ら顔を更に赤くして、ニイナを睨みつけた。
「お前、どこから来た? 見ない顔だな」
ニイナは俯いたまま答えた。
「母が、ここに来れば飯を食べさせてもらえるって……」
班長は鼻を鳴らした。よくある話だ。戦争が始まれば、貧しい家の娘たちが食い扶持を求めて炊事場に群がる。配給の残り物でも、飢えた者には御馳走だ。
「ふん、まあいい。どうせ人手不足だ」
班長の目がニイナの体格を値踏みする。しっかりした肩幅、太い腕。農家の娘らしい頑丈さだ。使えそうだ。
「魚、さばけるか?」
「はい」
大きな川魚が投げ渡される。都の娘なら悲鳴を上げるところだ。だがニイナは何の躊躇もなく包丁を握った。
鱗を落とす。内臓を取り出す。三枚におろす。その手際の良さに、班長の目が光った。血で手が汚れても顔色一つ変えない。骨を外す手つきも慣れたものだ。
「ほう……上手いじゃないか」
班長の頭の中で計算が始まった。今朝来た研修の巫女見習いたち。良家の娘で、魚を見ただけで顔を青くした。包丁も満足に握れない。使い物にならない。
それに比べて、この娘は――
「おい、エリカ! サナ!」
班長が怒鳴ると、二人の若い女が恐る恐る近づいてきた。綺麗な服を着た都の娘たちだ。神殿学校から研修に来ているが、まるで役に立たない。
「お前ら、もういい! 荷物まとめて帰れ!」
「え? でも班長、研修期間はまだ――」
「うるせえ! 使えねえ奴に飯を食わせる余裕はねえんだよ!」
班長の剣幕に、二人は震え上がった。普通の、いや少し裕福な家庭で育った彼女たちには、この粗暴さは理解できない。
「こ、こんな扱い、父に言いつけますから!」
「神殿に報告しますわ!」
捨て台詞を残して去っていく二人を、班長は鼻で笑った。どうせ戦時の混乱で誰も相手にしない。それより――
班長は心の中でそろばんを弾いた。あの二人の給料、そのまま懐に入れられる。この新入りはただ飯を食わせるだけでいい。安上がりだ。
「お前、名前は?」
「……ナナです」
ニイナは咄嗟に偽名を告げた。
「ナナか。いいか、ここじゃ俺の言うことが絶対だ。飯と寝床はくれてやる。その代わり、死ぬ気で働け」
「はい」
これでエリドゥまで怪しまれずに行ける。ニイナは内心で安堵した。下働きの集団なら誰も注目しない。数万の軍勢の中で、一介の炊事女など誰が気にするだろう。
夜、粗末な小屋に案内された。板張りの床に薄い布を敷いただけの寝床が並ぶ。他の下働きたちは疲れ果てて、死んだように眠っている。
ニイナは荷物から大切に包んだ楽譜を取り出した。月明かりに透かして見る。
『孤独な戦士の子守唄』
指で音符をなぞる。声には出さないが、頭の中で旋律が流れる。
――その剣は炎、その瞳は深淵……
手柄を立てたら、きっと許してもらえる。イザベラを殺せば、あるいはモルガンを倒せば。そうすれば巨人は――メルベルは振り向いてくれる。
楽譜を胸に抱き、目を閉じた。すぐに夢が始まる。温かい腕の中。でも今夜の夢は違っていた。巨人の顔がはっきり見える。それは間違いなくメルベルで、そして――恐怖に歪んでいた。
「違う……」
小さく呟く。優しい巨人の顔に戻そうとするが、どうしても上手くいかない。現実が夢を侵食していく。
##
その頃、バビロン神殿では緊迫した会議が開かれていた。
「どこにもいない、だと?」
アザリアの声が部屋に響く。報告に来た戦士たちが頭を深く下げる。
「はい。近隣の村々も全て探しましたが、痕跡すらありません」
「軍への潜入は?」
「数万の中から一人を……しかも手配書も出せない状況では」
アジョラが深いため息をついた。内密に捜索しているが、これには限界がある。要人の娘が脱走したなど公になれば、大スキャンダルだ。
何より問題なのは――
「メルベル様に知られたら、どうなるか」
リーナが呟く。全員が同じことを考えていた。もしメルベルが娘の脱走を知れば、全軍を放り出してでも探しに行くだろう。エリドゥ遠征どころではなくなる。
「手配書を出すわけにはいきません」
アジョラが苦渋の決断を下す。
「仮に秘密裏に『要注意人物』として手配したとしても、その命令を最初に受け取るのは前線指揮官。つまり――」
「メルベル様です」
ナブの部下が言葉を継いだ。
アジョラは頭を抱えた。八方塞がりだ。公にはできない。かといって内密の捜索では限界がある。数万の軍勢の中から、たった一人の少女を、しかも傷つけずに見つけ出すなど――
「それに、あの子がどこに向かったか」
ミリアが不安そうに言った。彼女は牢獄でニイナと対面している。あの冷たい瞳、感情の欠片もない眼差しを忘れられない。
「まさか、メルベル様を襲うために……」
「それはない」
アザリアが断言した。だが、心の底では確信が持てない。あの子の心は壊れている。何をするか分からない。
「とにかく、各部隊に非公式に探らせるしかありません。『怪しい少女を見かけたら報告』という程度で」
「それでは見つかりません」
「分かっている」
アジョラの声は冷たかった。
「だが他に方法がない。メルベルには絶対に知らせるな。いいな?」
全員が頷いた。
##
翌朝早く、軍の出発準備が始まった。
ニイナは他の下働きと共に、食料や水を荷車に積み込んでいた。重い樽を運び、干し肉を袋に詰め、薪を束ねる。
「ナナ! もっと手を動かせ!」
班長の怒鳴り声に、黙々と従う。周りの女たちが不思議そうに見ている。あの新入り、どこから来たのだろう。妙に手際が良い。
「あの子、変わってるよね」
「全然疲れた顔しないし」
「血を見ても平気だし。普通じゃないよ」
ひそひそ話が聞こえるが、ニイナは気にしない。ただ機械的に作業を続ける。
昼過ぎ、前線部隊の視察が通りかかった。その中にナブの姿があった。
ニイナは素早く大鍋の陰に身を隠した。心臓が激しく鼓動する。見つかるわけにはいかない。まだエリドゥに着いていないのだ。
ナブは何も気づかずに通り過ぎる。ニイナは安堵の息をついた。
「どうした、ナナ?」
班長が声をかける。
「いえ、何でも……」
「そうか。今から出発だ。お前も荷車に乗れ」
ついに動き出す。エリドゥへの行軍が始まる。
夕刻、延々と続く軍列が動き始めた。松明の光が闇を切り裂き、戦士たちの鎧が鈍く光る。馬のいななき、車輪の軋む音、兵士たちの掛け声。
ニイナは下働きの女たちと共に、補給部隊の荷車に乗っていた。誰も彼女に注目しない。ただの炊事女の一人。完璧な偽装だった。
しかし、軍列の先頭近く、メルベルが不意に振り返った。
「……何だ、この感じは」
「どうされました、将軍」
副官が尋ねる。
「いや……何か、近くに……」
メルベルは首を振った。説明できない胸騒ぎ。まるで大切な何かが、すぐそばにいるような。
「疲れか」
自分に言い聞かせて前を向く。エリドゥまであと数日。決戦が待っている。今は集中すべき時だ。
だが、違和感は消えなかった。
その後方、はるか離れた場所で、ニイナは楽譜を胸に抱きしめていた。荷車の揺れに身を任せながら、小さく呟く。
「もうすぐ……もうすぐ、全てが変わる」
手柄を立てる。そうすれば巨人は許してくれる。優しく抱きしめてくれる。現実の世界で、夢のような完璧な場所を取り戻せる。
そう信じながら、少女は軍隊という巨大な迷宮の奥へと進んでいった。




