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第六十話「裏切りの計算」



街全体が騒がしくなっていた。


神殿の周辺では、朝から晩まで戦士と巫女が行き交う。重い装備を運ぶ音、命令を伝える怒号、馬車の車輪が石畳を転がる音。


学校にも影響が出始めた。


「今日の剣術訓練は中止です」


朝の連絡で告げられる。


「教官は遠征に参加されました」


ベテラン教官が次々と戦場へ向かい、授業が成り立たなくなっていた。空いた時間を埋めるため、急遽「瞑想の時間」が設けられる。


「これはチャンスね」


マヤが小声で言った。だが、すぐに異変に気づく。


寮の廊下に、見慣れない戦士が立っていた。


「あれ……」


ユナも気づいた。


「私たちの部屋の前、見張りがいる」


ニイナは窓から外を確認した。寮の周りにも、それとなく戦士が配置されている。


「駄目か……」


学校が手薄になったことで、逆に重要人物への警備が強化されたらしい。


マヤの頭が高速で回転し始めた。


一、二日で行って戻る計画は無理だ。

見張りを突破するのは困難。

でも、ニイナは絶対に諦めないだろう。


そして、ある考えが浮かぶ。


ニイナが出て行った直後に、教官に報告する。

『気づいたらいなくなっていました』と。


これなら、どちらにも顔が立つ。

ニイナには『頑張ったけど失敗した』と言える。

教官には最低限の責任を果たしたことになる。


自分には、メルベル様の娘を物理的に止める力などない。

知らなかったと言えば、罪は軽い。


マヤは自分の合理性に満足した。


「瞑想の時間があるでしょう?」


ニイナが呟いた。


「その隙に」


夕方、瞑想の時間が始まった。


生徒たちはそれぞれの部屋で、静かに目を閉じることになっている。見張りも、この時間は少し緩む。


ニイナは素早く動いた。


窓から外へ。

用意していた下働きの服に着替え。

楽譜を懐に。


「気をつけて」


ユナが震え声で言う。


「すぐ戻る」


ニイナは振り返らずに消えた。


マヤは数分待った。そして立ち上がる。


「食事を取ってくるね」


ユナに向かって大きな声で言う。見張りに聞こえるように。


そして足早に歩き始めた。向かう先は教官室。


ルールー教官の部屋の扉を叩く。


「失礼します」


「マヤ? どうしたの?」


ルールーは書類から顔を上げた。


「実は……」


マヤは息を切らしたふりをする。慌てて駆けつけた演技。


「ニイナさんが、突然自分の素性を明かして……」


「素性?」


「メルベル様の娘だって言い出して、私たち驚いている隙に窓から逃げてしまって」


マヤは計算された動揺を見せる。


「今、慌てて先生に連絡しに来たんです」


ルールーの顔が青ざめた。


「このことは他に話したか?」


「もちろんしていません」


マヤは即答する。


「でも、ユナも聞いていました。部屋にいます」


これがギリギリのライン。ユナを巻き込むが、共犯にはしない。


ルールーは立ち上がった。


「すぐに確認する。部屋で待っていなさい」


マヤが退室すると、ルールーは震える手で通信機を取った。


相手は、事前に決められていた連絡先。アザリア様の直属の部下、ミリア。


「例の人物が逃げ出しました」


『なんですって!?』


ミリアの声が鋭くなる。


「行軍に紛れて移動した可能性が高いです」


一瞬の沈黙。


ミリアの脳裏に、あの光景が蘇る。

牢獄の中の少女。

冷たい瞳。

鉄格子に囲まれても一切動じない態度。

まるで、人形のような無表情。


間違いない。メルベル様を襲いに行ったのだ。


ミリアは最近のニイナの変化を知らない。学校での様子も、人間性を取り戻しつつあることも。彼女の中では、ニイナは危険な殺戮者のままだった。


「話は分かりました。あなたは子供たちから詳しく話を聞いてください」


『承知しました』


通信が切れると、ルールーは急いで部屋へ向かった。


マヤとユナが待っていた。


「詳しく聞かせて」


マヤは素早く口を開く。


「さっきも言いましたけど、突然『私はメルベル様の娘』って告白されて」


ユナに視線を送る。私に合わせろ、という無言の圧力。


「私たち、本当にびっくりして」


ユナも慌てて頷く。三日間も一緒に逃走準備を手伝っていたなんて、口が裂けても言えない。援助打ち切りは確実だ。


「それで、父親に会いに行くって窓から……」


マヤは困ったような表情を作る。完璧な被害者の演技。


「止める間もありませんでした」


数分後、アジョラの執務室に緊急連絡が入った。


「ニイナが脱走?」


アジョラの声は冷静だった。だが、その瞳には鋭い光が宿る。


「メルベルには?」


『まだ連絡していません』


「そのままにしておきなさい」


アジョラは即断した。


あの男が知れば、間違いなく作戦を放棄して探しに行く。それだけは避けなければ。


「密かに追跡させなさい。見つけ次第、確保」


『承知しました』


アジョラは窓の外を見た。


夕暮れの空が、不吉な赤に染まっている。


孫娘よ、一体何をするつもりなのか。


本当に父親に会いたいだけなのか。

それとも――


いずれにせよ、面倒なことになった。


一方、街の雑踏に紛れたニイナは、順調に補給部隊の集合地点へ向かっていた。


誰も下働きの巫女など見ない。

完璧な偽装。


マヤが裏切ったことも、追手が放たれたことも知らずに。


ただひたすら、目的に向かって歩き続ける。


巨人の腕を取り戻すために。

手柄を立てるために。


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