第五十七話「拒絶された場所」
メルベルの全身が総毛立った。
ニイナがこちらを見ている。振り向きざま、視線を外したまま教官の攻撃を完璧に捌き、一撃を加えた。教官は驚愕のあまり木刀を取り落としている。
「普通じゃない……」
取り繕ってはいたが、娘は完全に異質の存在だった。
木刀を握ったまま、ニイナが走ってくる。メルベルは反射的に身を引いた。だが、娘は目の前で立ち止まった。
夕暮れの再現。
剣を握った娘が、また目の前にいる。
あの時、俺は彼女の左手を切り落とした。無意識に娘の左手を見る。装飾品に隠されているが、生々しい傷跡が覗いていた。右手には木刀。
「しまった、この時を待っていたのか?」
ぞっとする考えが頭を駆け巡る。復讐の機会を狙っていたのか。いや、こちらには真剣がある。いくらなんでも木刀では――
メルベルは半身になり、腰に手を回した。いつでも抜刀できる体勢。
沈黙が流れる。
数秒が、永遠のように感じられた。
ニイナは無表情でこちらを見つめている。その瞳の奥で、何かが激しく渦巻いているのが分かった。
そして――
ニイナの顔が、愕然とした表情に変わった。
項垂れる。
木刀が、力なく手から滑り落ちた。
奇妙な時間が流れた。
教官が走ってくるのが見える。メルベルはアザリアとの約束を思い出した。お忍びで、誰にも気づかれてはいけない。
素早く、しかし慎重に、その場を離れた。
いや、逃げるように走り去った。
「アザリアの言うことを聞いておけばよかった……」
息を切らしながら、メルベルは後悔していた。妻の忠告は、たいていの場合正しい。
「来るんじゃなかった」
混乱が頭を支配している。こんな気持ちで、娘から背を向けてしまうなんて。警戒し、恐れ、まるで敵を見るような目で。
父親として、最低だった。
背後で、小さな音が響いた。
木刀が石畳に落ちる音。静寂の中で、硬質な木の音が痛いほど鳴り響く。
振り返りたかった。
戻りたかった。
抱きしめたかった。
でも、できなかった。
足が勝手に、娘から遠ざかっていく。
***
ニイナは走っていた。
「あの巨人だ!」
心が叫んでいた。間違いない。夢の中の声と、夕暮れで聞いた声は同じだった。自分の生みの親。あの完璧な世界で自分を包んでいた存在。
完全に安全で、柔らかく、甘い振動の歌とリュートの音。
今あそこに飛び込めば、全てが自分のものになる。
その想像が電撃のように駆け巡った。
目の前で立ち止まる。
今見ても大きい。見上げるような体躯。
あの時はただ懐に飛び込むだけだった身長差が、今は違って見えた。
神々しさ? 安心感?
男は一歩引いたが、そこで止まった。
ニイナは観察した。長年の習慣で、相手の全てを読み取る。
男の顔に浮かぶのは、驚愕と緊張。
そして――恐れ。
つま先に力が入り、いつでも左右に移動できる配置。
攻撃面積を減らすための半身の構え。
腰に添えられた手は、いつでも抜刀できる位置。
「あ……」
理解が、稲妻のように貫いた。
アザリアの言葉が蘇る。
『巨人はもう、あなたを抱いてはくれない』
『ごめんなさい、本当ならその場所はあなただけの場所』
『今でもあった場所だったのに』
絶望が、全身を包み込んだ。
許してはくれないのだ。
自分が剣を突き立てた肩が、こちらを向いている。警戒の姿勢。敵を見る目。
「当然の……結果だ」
もう自分の居場所は夢にしかない。
現実にはもうない場所。
自分で捨ててしまった。
自分の無知が招いた結果。
洗脳された? 自分の人生は嘘で固められていた?
全てが電撃的に脳裏を駆け巡る。
手から力が抜けた。
木刀が、ずるずると地面に落ちる。
「どうした! 大丈夫か!」
教官が走ってくる。でも、もうどうでもよかった。
顔を上げると、男は消えていた。
遠くに、その背中が見えた。
歩き去っていく、広い背中。
「私の……優しい巨人……」
声にならない呟きが、風に溶けた。
「おい、しっかりしろ!」
教官が肩を掴む。ニイナは力なく振り返った。
「……大丈夫です」
嘘だった。何も大丈夫じゃない。
「急に走り出して、何があった?」
「……何も」
また嘘。全てがあった。そして、全てが終わった。
マヤとユナが息を切らして追いついてくる。
「ニイナ! どうしたの!?」
「心配したよ!」
二人の声が遠い。まるで水の底から聞こえてくるようだ。
「ごめん……ちょっと、気分が」
適当な言い訳。もう何でもよかった。
巨人は去った。
自分を恐れて。
自分を拒絶して。
それが現実。
夢の中でしか、もう会えない。
「保健室に行くか?」
教官が心配そうに言う。この強面の男の優しさが、今は痛かった。
「いえ、もう大丈夫です」
ニイナは木刀を拾い上げた。左手が震えている。傷跡が疼いているような気がした。
「続けましょう」
無感情な声で言う。
教官は戸惑いながらも頷いた。
訓練が再開される。
ニイナは機械的に木刀を振る。
心はもう、ここにはない。
暗闇の中で、楽譜を抱いて眠る時だけが、本当の時間。
夢の中でだけ、巨人は優しい。
現実では、もう永遠に。
あの腕の中には、戻れない。
太陽が傾き始めていた。
夕暮れが近づいている。
全てが終わった、あの夕暮れと同じ色に、空が染まり始めていた。
「嘘だ……」
ニイナが小さく呟く。木刀を振りながら、何度も何度も。
「嘘だ……嘘だ……」
教官が困惑した顔で見ている。マヤとユナも不安そうに顔を見合わせた。
「ニイナ、本当に大丈夫?」
マヤが恐る恐る声をかける。
「……大丈夫」
機械的な返事。でも頭の中では、激しい矛盾が渦巻いていた。
夢の中の巨人も、結局は記憶の中の存在。
現実ではない。
なのに、現実の巨人があそこにいる。
触れられる距離にいたのに、逃げられた。
なぜ今更、夢にすがれるのか?
「いや、違う……」
呟きながら、必死に考える。
手に入れる方法があるはずだ。
何か方法が。
きっと、必ず。
「嘘だ……」
また呟いてしまう。
「休憩にしよう」
教官が諦めたように言う。この少女は明らかに普通じゃない。何か深い事情を抱えている。
「はい……」
ニイナは木刀を置いた。手が震えている。
空を見上げる。
オレンジ色に染まる空。
巨人が去っていった方向。




