第五十六話「視線の先に」
野外訓練場は、まさに地獄絵図だった。
「痛い!」
「うわーん!」
あちこちで巫女の卵たちが泣いている。木刀を自分の頭にぶつけたり、振り回そうとして転んだり。スプーンより重いものを持ったことのない手から、木刀がすっぽ抜けて飛んでいく。
戦士の教官――丸太のような腕、顔には大きな傷跡、耳が欠けて潰れている――は、げっそりとした顔で呟いた。
「なんで俺なんだよ……だから嫌だったんだ」
普段なら部下を怒鳴り散らしている鬼軍曹も、今日ばかりは声を潜めざるを得ない。少女たちは彼の顔を見ただけで泣き出しそうになる。
「えーと、そうじゃなくて、こう持って……」
細心の注意を払いながら指導するが、効果は薄い。仕方なく、綿で包んだ竹の棒を配る。それでも頭に当たって泣く子が続出する。
そんな中、ニイナは淡々と木刀を振っていた。
適当に、目立たないように。
でも体に染み付いた動きは隠しきれない。
重心の移動、足運び、手首の返し。
全てが、長年の訓練を物語っている。
「全員殺すのに五秒とかからないな……」
心の中で呟きながら、わざとぎこちない動きを混ぜる。しかし、それでも他の少女たちとは明らかに違っていた。
教官の目が輝いた。
「やっと、オアシスを見つけた!」
大股で近づいてくる。他の少女なら泣き出すところだが、ニイナは無表情のまま見上げた。
深い、冷たい青の瞳。
恐れも、興味もない。
ただ、そこにいるだけ。
「これは……普通の子じゃないな」
長年の経験が告げている。この少女は、何かが違う。
「よし、ちょっとやってみよう!」
教官が綿の棒を構える。ニイナは内心で溜息をつきながら、軽く振った。
ぴしり。
教官が受け止める。その瞬間、歓喜が顔に広がった。
「ちゃんとした稽古だ! やっと練習になる!」
「おい、他は任せた」
部下に丸投げして、教官はニイナとの練習に集中し始めた。
遠くの木陰から、その様子を見つめる影があった。
メルベルだ。
教官用の制服を着て、顔を隠すように立っている。その視線は、ただ一点のみを見つめていた。
金髪の少女。
自分の娘。
学校に通う、普通の姿だ。
「普通の子だ……本当に、普通の子になった」
安堵の息が漏れる。隣の少女が何か話しかけている。友達だろうか? どんな話を普段するのだろうか?
だが、教官が近づいてきて構えを取った瞬間、メルベルの表情が曇った。
分かってしまう。
見る者が見れば、一目瞭然。
あの動きは、経験者のものだ。
周りの少女が転んで泣いている中、大男を前に臆さない。骨の髄まで染み付いた剣技が、無意識に顔を出している。
「あの夕暮れの戦い……」
苦い記憶が蘇る。ニイナとの決闘。彼女の左手首を切り落とした時の感触。
木刀とはいえ、凶器を握る娘の姿は辛い。
無意識に、腰の剣の柄に手が伸びた。
その時、ニイナが急に動きを止めた。
視線を感じる。
誰かが、自分を見ている。
振り向きざまに、教官の木刀を流す。そのまま反撃。教官の腕に、鋭い一撃が入った。
「うわっ!」
教官は驚きながらも、歓喜の表情を見せる。油断していたとはいえ、完璧な一撃だった。真剣なら、腕が落ちていた。
「すごい!」
「やっぱり、すごいお家の人なんだ!」
マヤとユナが目を丸くする。
だがニイナは、もう彼女たちを見ていなかった。
完全に振り向いて、視線の先を見つめる。
そして、走り出した。
「あれは……巨人だ!」
心の声が叫ぶ。
「私の優しい巨人!」
何も考えずに、ただ真っ直ぐに。
木刀を投げ捨てて、全速力で。
メルベルは凍りついた。
まさか、気づかれた?
いや、それより――
娘が、自分に向かって走ってくる。
その瞳には、切実な何かが宿っていた。
「ニイナさん!」
マヤが慌てて追いかけようとする。
「どうしたの!?」
ユナも混乱している。
教官は呆然と立ち尽くしていた。今の一撃の衝撃と、少女の突然の行動に、思考が追いつかない。
訓練場が、一瞬にして騒然となった。
だが、ニイナの耳には何も入らない。
ただ、巨人に会いたい。
触れたい。
確かめたい。
あれは本当に、私の巨人なのか。
夢の中の、あの温かい腕の持ち主なのか。
足が地面を蹴る度に、心臓が高鳴る。
距離が、少しずつ縮まっていく。
メルベルは、逃げるべきか、留まるべきか。
一瞬の判断を迫られていた。
約束では、見るだけのはずだった。
話しかけもしないはずだった。
でも、娘が走ってくる。
自分に向かって、必死の形相で。
その瞳の奥に、何を見たのか。
恨みか、憎しみか。
それとも――
時間が、ゆっくりと流れているように感じられた。




