第五十五話「戦前の焦燥」
訓練場に怒号が響き渡る。
「何をやっている! 隊列が乱れているぞ!」
メルベルの声が若い兵士たちを震え上がらせた。エリドゥ遠征を控えた集団戦闘訓練。わずかな乱れも許されない。
「お前たちの油断が、仲間の命を奪うんだ! もう一度だ!」
若い巫女たちは恐怖で顔を青ざめさせ、ベテラン兵士たちも背筋を正す。バビロンの英雄に目をつけられては、今後の軍歴に響く。
「申し訳ございません!」
小隊長が必死に部下を叱咤する。自分の責任問題になる前に、何とか形にしなければ。
隣の訓練場では、アザリアとリーナが巫女部隊の指導に当たっていた。法力の連携、聖火の同調。高度な技術を、何度も何度も反復させる。
「集中が足りないわ。戦場では一瞬の隙が死を招く」
アザリアの冷たい声に、巫女たちが身を縮める。
一方、作戦本部では幹部たちが額を突き合わせていた。
「補給線の確保は?」
「三つのルートを用意しました。主要道と、二つの迂回路です」
「装備の調達資金は?」
「国庫から特別予算が下りました。工場もフル稼働の準備が整っています」
ナブが書類の山と格闘しながら、細かい調整を続ける。五千の戦闘部隊に、それを支える補給部隊。総動員すれば数万規模の大作戦だ。
「民衆の支持は得られるか?」
「演説の草稿を用意しました。『最後の聖火奪還』という大義名分で」
「厭戦気分への対策は?」
「戦時国債の発行と、遺族年金の増額を約束します」
全ては、エリドゥに潜む最後の敵を討つため。
イザベラ。ギシュガルの巫女にして、実質的な妻。
モルガン。神殿を追われた狂気の科学者。
特にモルガンは厄介だった。ルカヴィが人間に偽装する薬を開発し、数々の改造兵器を生み出した天才。倫理観の欠如と異常な才能で、何百年も前に神殿を追放された危険人物。
「特殊部隊の編成は?」
「精鋭二十名を選抜しました。全員、対ルカヴィ戦の経験者です」
メルベルの目に、復讐の炎が宿る。
表向きには、十四年前に娘を殺された父親。幹部たちもその設定を信じている。
「必ずご息女の仇を討ちましょう」
幹部の一人が力強く言う。メルベルは黙って頷いた。
訓練が一段落し、メルベルはアザリアの元を訪れた。
「なあ、出発前に一目でいい。ニイナの顔が見たい」
またか、とアザリアは内心で呟く。
「駄目よ。何度言えば――」
「一言二言話すくらいいいだろう?」
メルベルの声が熱を帯びる。
「どこの世界に、戦いに行く前に娘の顔を見たいという望みを断る妻がいる?」
その言葉に、アザリアは深い溜息をついた。この男の頑固さは、岩よりも固い。
「……じゃあ、本当にお忍びよ。いいわね?」
「本当か!」
メルベルの顔が輝く。まるで子供のようだ。
「授業で外に出る場面を用意するから、その時に一目だけ」
「授業?」
メルベルが聞き返す。
「今は神殿の巫女部門で、別人として生活してるの」
「本当か!」
メルベルの声が跳ね上がる。
「そこまで一般生活に溶け込んでいるのか! 本当に普通になったんだな!」
その喜びようは、見ていて痛々しいほどだった。十五年の空白が、どれほどこの男を苦しめているか。
「出発の前に、ほんの一瞬だけ。時間はこちらで指定するから、空けておきなさい」
「どんな会議が入っていても行く」
メルベルが真顔で即答する。
「こうなるから嫌だったのよ……」
アザリアが疲れた顔をする。一目見たら、絶対に一目では済まない。この男の性格は、誰よりもよく知っている。
「約束するから。本当に見るだけ。話しかけもしない」
「信じられないわ」
「頼む、アザリア」
メルベルの目が、切実な色を帯びる。戦場に行く前の、父親の願い。断れるはずもなかった。
「分かったわ。でも本当に、遠くから見るだけよ」
「ああ、約束する」
嘘だろう、とアザリアは思った。でも、もう止められない。
訓練場に戻ったメルベルは、明らかに上機嫌だった。
「よし、もう一度だ! 今度はもっと気合を入れろ!」
兵士たちは顔を見合わせた。さっきまでの鬼のような形相が、急に和らいでいる。
「どうした、ぼさっとするな!」
でも、その声には先ほどまでの刺がない。
ナブが不思議そうに尋ねる。
「何か良いことでもあったのか?」
「別に」
メルベルはそっけなく答えたが、口元が緩んでいる。
その夜、メルベルは久しぶりに熟睡した。
夢の中で、小さな娘が笑っている。
普通の服を着て、普通の生活をしている娘。
友達と笑い合い、授業を受けている娘。
それは、十五年間願い続けた光景だった。
明日、それが現実になる。
たとえ一目でも、生きている娘の姿を見られる。
エリドゥでの戦いも、もう恐くない。
娘のために、必ず生きて帰る。
イザベラを倒して、全てを終わらせる。
そして、いつか――
本当の家族として、一緒に暮らせる日が来る。
その希望を胸に、メルベルは眠り続けた。
一方、神殿学校の寮では、ニイナが暗闇の中で楽譜を抱きしめていた。
明日も授業がある。
退屈な座学と、待ち遠しい音楽の時間。
リュートの練習を、もっとしなければ。
巨人に認めてもらうために。
いつか、許してもらうために。




