第五十四話「従者たちの野心」
寮の部屋は三人一組。これもアジョラとアザリアの采配だった。ニイナの周りを、援助を受けている家の娘たちで固める。彼女たちは知らず知らずのうちに、ニイナの従者となっていた。
夜、消灯時間を過ぎても、部屋には小さな灯りが点いていた。
「もう少し練習したいの」
ニイナがリュートを抱えて言う。その声には有無を言わせない何かがあった。
「もちろん、私たちも付き合うわ」
マヤが即座に答える。将来の上司になるかもしれない人物に、嫌な顔など見せられるはずがない。
「私も練習したいし」
ユナも慌てて自分のリュートを取り出した。本心では眠かったが、そんなことは口が裂けても言えない。
ニイナは丁寧に、まるで聖遺物でも扱うように、厚いファイルから楽譜を取り出した。紙の端が少しでも折れないよう、細心の注意を払いながら。
『孤独な戦士の子守唄』
マヤとユナは、歌詞を見た瞬間に理解した。
これは、英雄メルベルの歌だ。
名前こそ明記されていないが、千年王に挑んだ炎の戦士、全てを捨てて愛する者を守った男。誰が聞いても、メルベル・ボムのことだと分かる。
そして目の前には、アザリア様と瓜二つの少女。
身分を隠して下位クラスにいる。
楽譜を宝物のように扱う。
左手首には、明らかに最近の傷跡。
「……綺麗な歌ね」
ユナが呟いた。声が少し震えている。
確信が、稲妻のように二人の頭を貫いた。
この少女は、メルベルとアザリアの娘だ。
千年王ギシュガルを倒した英雄の血を引く者。
バビロン戦役で名を轟かせた、あの二人の子供。
マヤとユナは一瞬、視線を交わした。その目には、同じ炎が宿っていた。
野心の炎。
もしこの少女の側近になれたら。
もし信頼を得ることができたら。
そこらの貴族なんて目じゃない地位が手に入る。
「私、この歌好きよ」
マヤが優しく言う。内心では計算が働いている。どうすれば気に入られるか。どうすれば、ユナより上に立てるか。
「子供の頃、酒場で聞いたことがある」
ユナも負けじと話に加わる。
「でも、こんなに美しい原曲だったなんて知らなかった」
ニイナは二人の言葉を聞きながら、弦を爪弾き始めた。
左手が思うように動かない。弦を押さえる度に、接合部が痛む。まだ生々しい傷跡が、失敗を思い出させる。
「大丈夫? 無理しないで」
マヤが心配そうに声をかける。本心半分、打算半分。
「……平気」
ニイナの声は固かった。諦めるという選択肢は、最初から存在しない。
三人でリュートを練習する。同じ楽譜を見ながら、同じメロディーを奏でようとする。
だが、それぞれの思いは全く違っていた。
ニイナは、巨人の腕に戻るために。
マヤは、貧困から抜け出すために。
ユナは、家族を見返すために。
「ねえ、ニイナ」
ユナが恐る恐る口を開く。敬称を外してみる勇気を出した。
「この歌、どこで覚えたの?」
一瞬の沈黙。
「……小さい頃、誰かが歌ってくれた」
ニイナの声は遠かった。夢の中の記憶を辿るように。
「優しい人だったのね」
マヤが柔らかく言う。地雷を踏まないよう、慎重に。
「……覚えてない」
嘘だった。覚えている。夢の中で、毎晩会っている。巨人の温かい腕、低い歌声、全てが鮮明に。
でも、それは言えない。
言ったところで、もう戻れない。
練習は深夜まで続いた。
ユナが先に限界を迎えて、ベッドに倒れ込む。マヤも疲労の色を隠せない。
でもニイナは止めなかった。
痛む左手を酷使しながら、同じフレーズを何度も繰り返す。完璧になるまで。巨人に認めてもらえるまで。
「ニイナ、本当にもう寝ましょう」
マヤが懇願するように言う。
「明日も授業があるし……」
ニイナはようやくリュートを置いた。楽譜を、また丁寧にファイルに戻す。一枚も折れていないことを確認してから。
部屋の明かりを消すと、三人はそれぞれのベッドに入った。
暗闇の中で、マヤとユナはほぼ同じことを考えていた。
絶対に、ニイナの信頼を勝ち取る。
絶対に、この機会を逃さない。
貧乏な家の娘が、英雄の娘の側近になる。
これ以上の逆転劇があるだろうか。
一方、ニイナは楽譜を胸に抱いて目を閉じた。
すぐに夢が始まる。
巨人の腕の中で、リュートの音が響く。
「上手になったな」
巨人が褒めてくれる。夢の中でだけ。
「もっと上手くなる」
ニイナは夢の中で答える。
「必ず、あなたと同じように弾けるようになる」
巨人は優しく笑う。でも、その笑顔はどこか悲しげだ。
朝が来るまで、ニイナは夢の中で練習を続けた。
現実でも、夢でも。
どちらが本当の世界か、もう分からなくなりながら。




