表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
53/94

第五十三話「巨人の楽器」



実技の授業は、ニイナにとって救いだった。


体操は何も考えずに体を動かせばいい。頭を空にして、ただ指示に従う。退屈な座学とは違い、これなら耐えられる。


そして午後、音楽室での授業が始まった。


「巫女の教養として、楽器の演奏は必須です」


年配の女性講師が説明する。


「これから三年間で、最低一つの楽器を習得してもらいます」


音楽室には様々な楽器が並んでいた。笛、太鼓、竪琴、そして――


リュート。


ニイナの心臓が跳ねた。


あれだ。巨人の楽器。


夢の中で見た、あの大きな木の板と太い弦。今見ると、夢の中よりずっと小さい。そうか、あれは自分が赤ん坊の頃の記憶なのだ。全てが巨大に見えていただけ。


そして思い出す。


夕暮れの中、メルベルが演奏していた姿。

壊れかけのリュートを抱えて、『孤独な戦士の子守唄』を歌っていた。

あの背中が、私の巨人なのか。


硬くて、でも柔らかかった大きな指。

夢の中の温もりと、現実の厳しさ。

自分の手首を切り落とした時の、苦悩に満ちた表情。


ニイナは無意識に左手首をさする。接合の跡がまだ生々しい。装飾品で隠してはいるが、動きは鈍い。医者も回復の速さに驚いていたというが、完全ではない。


リュートの前に立ち、じっと見つめる。


アザリアの言葉が蘇る。


『もう、巨人はあなたを抱いてはくれない。あなたは罪を重ねすぎた……本当に残念よ』


そうか。

あの時、決定的に見放されたのだ。


ニイナは震える手でリュートを持ち上げた。記憶の中の動作を真似て、弦を弾いてみる。


ぽろん、と頼りない音が鳴った。


「あ、ニイナさんはリュートにするの?」


マヤが慌てて同じようにリュートを手に取る。別々の楽器を選ぶ理由はない。一緒にいた方が、任務も果たしやすい。


「私も一緒に習おうかな」


講師が近づいてきた。


「リュートですね。良い選択です。では、まず持ち方から」


基本的な指導が始まる。楽器の持ち方、弦の押さえ方、弾き方。


ニイナは熱心に聞いた。今までの授業とは違う集中力で。


左手で弦を押さえようとするが、上手くいかない。接合した手首が、思うように動かない。


しまった、という後悔が広がる。


あの時、素直に捕まっていれば。

いや、そもそもメルベルの言葉を信じていれば。

父の仇などという幻想に囚われなければ。


苦い思いが胸を締め付ける。


だが同時に、希望も芽生えた。


もしこのリュートを習得できたら。

巨人と同じ楽器を演奏できるようになったら。

もしかしたら、許してもらえるかもしれない。


「左手が動きにくいの?」


講師が心配そうに尋ねる。


「……少し、昔の怪我で」


「そう。でも大丈夫よ。リュートは右手の方が大切だから」


優しい励ましだったが、ニイナには皮肉に聞こえた。


左手を失ったのは、自分の愚かさの結果。

それでも、諦めるわけにはいかない。


「ニイナさん、一緒に練習しましょう」


マヤが声をかける。本心からか、任務のためか。おそらく両方だろう。


「……うん」


ニイナは小さく頷いた。


他の生徒たちも、それぞれ楽器を選んでいる。ユナは笛を選んだ。レイチェルは優雅に竪琴を奏でている。


皆、それぞれの理由で楽器を選ぶ。

教養のため、将来のため、見栄のため。


でもニイナにとって、リュートは違った。


これは、巨人との繋がり。

失われた絆を取り戻すための、唯一の希望。


授業が終わる頃には、簡単な音階くらいは弾けるようになっていた。


「センスがあるわね」


講師が褒める。


「特にニイナさん。初めてとは思えないわ」


当然だった。頭の中には、メルベルの演奏が完璧に記憶されている。指の動き、弦の震え、全てが焼き付いている。


「ありがとうございます」


普通の生徒のように、謙虚に答える。


音楽室を出る時、ニイナは振り返った。


壁に掛けられたリュートたち。

その中の一つが、やがて自分のものになる。


そしていつか、あの歌を完璧に演奏できるようになる。

巨人に聴かせるために。

許してもらうために。


「ニイナさん、行こう」


マヤに促されて、ニイナは歩き出す。


夕方の光が廊下に差し込んでいた。

あの日と同じような、オレンジ色の光。


メルベルと対峙した、運命の夕暮れ。

全てを失い、そして何かを見つけた日。


左手首がまた疼いた。


でも今度は、希望の痛みだった。


この手で、いつか必ず。

巨人と同じ音を奏でてみせる。


その決意を胸に、ニイナは歩き続けた。


普通の少女のふりをしながら。

心の奥で、ひそかに炎を燃やしながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ