第五十三話「巨人の楽器」
実技の授業は、ニイナにとって救いだった。
体操は何も考えずに体を動かせばいい。頭を空にして、ただ指示に従う。退屈な座学とは違い、これなら耐えられる。
そして午後、音楽室での授業が始まった。
「巫女の教養として、楽器の演奏は必須です」
年配の女性講師が説明する。
「これから三年間で、最低一つの楽器を習得してもらいます」
音楽室には様々な楽器が並んでいた。笛、太鼓、竪琴、そして――
リュート。
ニイナの心臓が跳ねた。
あれだ。巨人の楽器。
夢の中で見た、あの大きな木の板と太い弦。今見ると、夢の中よりずっと小さい。そうか、あれは自分が赤ん坊の頃の記憶なのだ。全てが巨大に見えていただけ。
そして思い出す。
夕暮れの中、メルベルが演奏していた姿。
壊れかけのリュートを抱えて、『孤独な戦士の子守唄』を歌っていた。
あの背中が、私の巨人なのか。
硬くて、でも柔らかかった大きな指。
夢の中の温もりと、現実の厳しさ。
自分の手首を切り落とした時の、苦悩に満ちた表情。
ニイナは無意識に左手首をさする。接合の跡がまだ生々しい。装飾品で隠してはいるが、動きは鈍い。医者も回復の速さに驚いていたというが、完全ではない。
リュートの前に立ち、じっと見つめる。
アザリアの言葉が蘇る。
『もう、巨人はあなたを抱いてはくれない。あなたは罪を重ねすぎた……本当に残念よ』
そうか。
あの時、決定的に見放されたのだ。
ニイナは震える手でリュートを持ち上げた。記憶の中の動作を真似て、弦を弾いてみる。
ぽろん、と頼りない音が鳴った。
「あ、ニイナさんはリュートにするの?」
マヤが慌てて同じようにリュートを手に取る。別々の楽器を選ぶ理由はない。一緒にいた方が、任務も果たしやすい。
「私も一緒に習おうかな」
講師が近づいてきた。
「リュートですね。良い選択です。では、まず持ち方から」
基本的な指導が始まる。楽器の持ち方、弦の押さえ方、弾き方。
ニイナは熱心に聞いた。今までの授業とは違う集中力で。
左手で弦を押さえようとするが、上手くいかない。接合した手首が、思うように動かない。
しまった、という後悔が広がる。
あの時、素直に捕まっていれば。
いや、そもそもメルベルの言葉を信じていれば。
父の仇などという幻想に囚われなければ。
苦い思いが胸を締め付ける。
だが同時に、希望も芽生えた。
もしこのリュートを習得できたら。
巨人と同じ楽器を演奏できるようになったら。
もしかしたら、許してもらえるかもしれない。
「左手が動きにくいの?」
講師が心配そうに尋ねる。
「……少し、昔の怪我で」
「そう。でも大丈夫よ。リュートは右手の方が大切だから」
優しい励ましだったが、ニイナには皮肉に聞こえた。
左手を失ったのは、自分の愚かさの結果。
それでも、諦めるわけにはいかない。
「ニイナさん、一緒に練習しましょう」
マヤが声をかける。本心からか、任務のためか。おそらく両方だろう。
「……うん」
ニイナは小さく頷いた。
他の生徒たちも、それぞれ楽器を選んでいる。ユナは笛を選んだ。レイチェルは優雅に竪琴を奏でている。
皆、それぞれの理由で楽器を選ぶ。
教養のため、将来のため、見栄のため。
でもニイナにとって、リュートは違った。
これは、巨人との繋がり。
失われた絆を取り戻すための、唯一の希望。
授業が終わる頃には、簡単な音階くらいは弾けるようになっていた。
「センスがあるわね」
講師が褒める。
「特にニイナさん。初めてとは思えないわ」
当然だった。頭の中には、メルベルの演奏が完璧に記憶されている。指の動き、弦の震え、全てが焼き付いている。
「ありがとうございます」
普通の生徒のように、謙虚に答える。
音楽室を出る時、ニイナは振り返った。
壁に掛けられたリュートたち。
その中の一つが、やがて自分のものになる。
そしていつか、あの歌を完璧に演奏できるようになる。
巨人に聴かせるために。
許してもらうために。
「ニイナさん、行こう」
マヤに促されて、ニイナは歩き出す。
夕方の光が廊下に差し込んでいた。
あの日と同じような、オレンジ色の光。
メルベルと対峙した、運命の夕暮れ。
全てを失い、そして何かを見つけた日。
左手首がまた疼いた。
でも今度は、希望の痛みだった。
この手で、いつか必ず。
巨人と同じ音を奏でてみせる。
その決意を胸に、ニイナは歩き続けた。
普通の少女のふりをしながら。
心の奥で、ひそかに炎を燃やしながら。




