第五十二話「隠されたお嬢様」
下位クラスの教室で、文字の基礎を教える授業が続いていた。
「では、この文字の書き順は――」
教官の説明を、生徒たちは必死にノートに写している。だがニイナにとって、これは拷問に等しかった。
知っていることを、一時間かけて丁寧に説明される。
まるで、幼児扱いされているような気分。
退屈すぎて意識が朦朧としてきた。ニイナは紙を裏返すと、『孤独な戦士の子守唄』の楽譜を書き始めた。五線譜、音符、休符。記憶の中の楽譜を、正確に再現していく。
隣の席で、マヤがぎょっとした。
この子、文字が書けるどころじゃない。
楽譜まで書いている。
課題の紙の表には、既に完璧な答えが記入されている。それも、ものの数分で終わらせたらしい。そして今は裏に、複雑な音楽の記号を書いている。
これは――超お嬢様だ。
ルールー教官の話は本当だった。重要な人物の娘。高等教育を受けている証拠がここにある。
だが同時に、マヤは危機感を覚えた。
もしこれを教官に提出したら。
もし他の生徒に見られたら。
間違いなく騒ぎになる。なぜこんな優秀な子が下位クラスにいるのか、と。そうなれば、ニイナは別のクラスに移される。自分の任務は失敗。将来も消える。
マヤは小声で囁いた。
「ニイナさん、裏に何か書いて提出すると、先生に見つかった時にバレますよ」
ニイナは興味なさそうに顔を向けた。だが、少し考えて手を止めた。
確かに、目立つのは逆効果だ。
社会生活ができると証明するために、ここにいる。
目立てば、また檻に戻されるかもしれない。
ニイナは楽譜を消し始めた。炭の跡が完全に消えるまで、丁寧に。
仕方ない。頭の中で譜面を再生しよう。
その様子を見て、マヤは安堵した。そして同時に、チャンスだと思った。
「あの……私、この問題がよく分からなくて」
マヤが自分の紙を見せる。実際、文字を習い始めたばかりで理解が追いついていなかった。
「教えてもらえませんか?」
ニイナは一瞬迷った。だが、考え直す。
教えれば、溶け込める。
面倒見の良い少女として見られる。
それは悪くない評価だ。
「……ここは、こう書く」
ニイナが小さく説明を始める。簡潔だが、的確な指導。マヤは必死にメモを取りながら、感心していた。
本当に頭が良い。
授業が終わると、生徒たちは自然とグループを作り始めた。
マヤは素早く動いた。もう一人の少女――おとなしそうな茶髪の子――を誘って、三人のグループを作る。
「私はマヤ。こちらはニイナさん。よろしく」
「あ、私はユナです」
ユナと名乗った少女が、ニイナの顔をまじまじと見た。
「あの……ニイナさんって」
まずい、とマヤは思った。
「アザリア様に、すごく似てますよね?」
案の定だった。誰が見ても気づく。金髪碧眼、整った顔立ち。アザリア様の若い頃にそっくりだ。
マヤは慌てて話題を変える。
「それより、劇場の女優の方に似てない? ほら、今話題の――」
「あ、確かに! エリーナ・ゴールドでしょ?」
ユナが乗ってきた。
「そうそう! 今度の休みに、みんなで劇場見に行かない?」
話題が無事に変わった。マヤは内心で胸を撫で下ろす。
ニイナは二人の会話を聞きながら、ぼんやりと考えていた。
劇場。
そんなところに行ったことはない。
普通の少女たちは、そういう場所で楽しむのか。
「ニイナさんも一緒に行きましょう!」
ユナが無邪気に誘ってくる。
ニイナは一瞬考えた。そして、二人の表情を観察する。期待に満ちた笑顔。これが普通の反応なのだろう。
口元に笑みを作り、明るい声で答えた。
「前から見たいと思っていたの」
完璧な演技だった。ユナとマヤが嬉しそうに顔を見合わせる。
「やった! じゃあ、三人で行きましょう」
「楽しみね」
二人の興奮を見ながら、ニイナは内心で分析していた。
劇場。
そんなところに行ったことはない。
だが、普通の少女なら興味を持つはず。
これも演じなければならない役割の一つ。
教室を出る時、マヤはルールー教官と目が合った。
小さく頷く。
任務は順調です、という合図。
ルールーも満足そうに頷き返した。
廊下を歩きながら、マヤは横目でニイナを観察する。
この子は一体、誰の娘なのか。
アザリア様に似ているということは――
簡単な答えだった。
最近噂になっている、メルベル様。
そしてアザリア様。
二人の娘。
それなら、全てが納得できる。異常な才能も、隠さなければならない理由も。
マヤは秘密を胸に秘めた。
絶対に漏らさない。
自分の未来のために。
三人は食堂へ向かう。
「お昼は何にする?」
「今日は魚料理があるって」
他愛のない会話。
普通の少女たちの日常。
ニイナはそれを、遠くから見ているような気分で過ごしていた。
これが普通。
自分が演じなければならない役割。
でも、本当の自分は――
頭の中で、楽譜が流れ続けている。
今夜また、暗闇の中で巨人に会える。
それだけを楽しみに、この偽りの日常を生きていく。
マヤとユナは楽しそうに笑っている。
ニイナも、つられて小さく微笑んだ。
普通の少女の、普通の笑顔。
誰も、その裏にある闇を知らない。




