第五十一話「父の焦燥」
メルベルの部屋の机には、バビロン周辺の地図が広げられていた。
赤い印がいくつも打たれている。人目につかない道、監視の薄い抜け道、隠れやすい森の位置。全て、ニイナを連れ出すための逃走経路だった。
「また地図?」
アザリアが呆れたように言う。メルベルの思考は筒抜けだった。娘を連れ出して、どこか見知らぬ土地で一緒に暮らす。そんな妄想を、もう何日も繰り返している。
「母さんが言ってたろ」
メルベルが顔を上げる。
「ニイナは普通の娘らしくなったって。アザリアのおかげで、すごく良くなったって」
アジョラが息子の前で口を滑らせたのだ。アザリアは内心で舌打ちした。
「だったら、もういいんじゃないか? 俺がニイナを連れ出して、どこかで一緒に――」
「駄目よ」
アザリアが即座に否定する。
「今あなたが会ったら、敵にバレる。我慢して」
「でも、ちょっとくらい――」
「ちょっとで済むわけないでしょう」
アザリアの声が鋭くなる。
「あなたが娘に会ったら、どうなるか分かってる? 綿密な計画を全て破壊して、十五年の失われた時間を取り戻そうと暴走するに決まってる」
メルベルは反論できなかった。実際、その通りだろう。いや、もしかしたら本当にちらっと見るだけで満足できるかもしれない。だが、自分でも予想がつかなかった。
「それより、エリドゥ遠征の話はどうなってるの?」
話題を変えようとするアザリアに、メルベルは渋々答えた。
「バビロンの時と同じだ。俺が第一部隊の指揮官。今回は一部隊で戦士と巫女合わせて五百人」
「規模が大きいわね」
「取り巻きが一組に五人、合わせて二千五百人。作戦が始まったらナブも来る。総勢五千人だ」
メルベルは地図から目を離さずに続ける。
「戦闘はあるだろうが、油断しなければ前みたいなことにはならない」
そして、しつこく食い下がる。
「なあ、エリドゥで俺は死ぬ可能性もあるんだ。その前に、一目でも――」
「じゃあ生きて戻ってきなさい」
アザリアがぴしゃりと言う。
「エキドナをあの世に送ってから、存分にこの家に呼べるようにちゃんと生き残ってきて」
メルベルは渋い顔をした。
「ケチな女だ……」
ぶつぶつ言いながら、また地図を眺め始める。
アザリアはため息をついた。
「娘のことばかりじゃないの。ガレスの方にもたまには顔を出しなさい」
その言葉に、メルベルの表情が曇る。
「ナブの奴が、なんかいろいろ言って俺が鍛えるのを渋るんだ」
声がしゅんとしている。
「あいつにとっても息子だ。俺が家にどかどか入るのが、気に入らないのかも……」
「あのナブが、そんなこと?」
アザリアは呆れた。リーナから少し聞いていたが、本当だったとは。
確かに、十四年育てさせておいて取り上げるのも気の毒ではある。メルベルも一応、礼の品や挨拶には行っているらしい。ガレスには正体を明かせないものの、感謝の気持ちは示そうとしている。
だが、今や国一番の金持ちであるナブの家に、どんな宝を持って行っても、誠意の証明にはなるが実質的な助けにはならない。
メルベルは父性の行き場を失って、相当ストレスが溜まっているのだろう。アザリアはまたため息をついた。
これは絶対に、娘を刑務所でいじめていたなどと知ったら、すごい剣幕で怒るだろうな……
アザリアは心の中で苦笑した。アジョラ様も息子の前では口が軽くなるようだ。
幸い、学校のことはメルベルは知らない。まだ刑務所の中か、たまに外出を許可されている程度だと思っている。それを信じ込ませておく必要がある。
「なあ」
メルベルが急に顔を上げた。
「本当に、ニイナは良くなってるんだよな?」
その目には、切実な父親の不安が宿っていた。
「……ええ、良くなってるわ」
アザリアは曖昧に答える。学校のことは言えない。普通の生徒として過ごしていることも、監視網の中にいることも。
「普通の娘みたいに、笑ったりするのか?」
「……そうね」
「歌とか、歌ったりするのか?」
メルベルの質問が止まらない。アザリアは適当に相槌を打ちながら、早くこの話題を終わらせたかった。
「とにかく」
アザリアが話を打ち切る。
「エリドゥから生きて帰ってきなさい。そうしたら、全て上手くいくから」
メルベルは不満そうだったが、頷いた。
「分かった。必ず生きて帰る。そして――」
娘に会う。その言葉を飲み込んで、メルベルはまた地図に目を落とした。
いつか必ず、この逃走経路を使う日が来る。
娘と二人で、どこか遠くへ。
失われた十五年を取り戻すために。
そんな妄想を抱きながら、メルベルは赤い印を増やし続けた。
アザリアは黙ってそれを見守る。
この男の暴走を止められるのは、自分だけだ。
少なくとも、エリドゥが片付くまでは。
その後のことは――その時に考えればいい。
窓の外では、夕陽が沈もうとしていた。
バビロンの神殿学校では、ニイナが授業を受けているはずだ。
父の存在も知らずに。
普通の生徒のふりをしながら。




