第五十話「蜘蛛の巣」
神殿学校の教官室。
ルールーは二十代半ばの女性だった。新人巫女の教育を取りまとめる立場にあるが、その地位に満足していない。才能はあったのに、ガードとの相性が悪く、現場を離れざるを得なかった過去がある。
そんな彼女のもとに、ナブとリーナが訪れた。
「突然お邪魔して申し訳ありません、ルールー教官」
ナブが丁寧に頭を下げる。リーナも同様だ。
「いえ、どういったご用件でしょうか」
ルールーは緊張しながら答えた。ナブは神殿の中級管理職、リーナは六つの聖火を宿す高位巫女。自分より遥かに上の立場の二人が、なぜここに。
「実は、お願いがあって参りました」
ナブが声を潜める。
「ある生徒のことです。名前はニイナ・カーカラシカ」
その名前を聞いて、ルールーの頭に閃光が走った。
試験で見た、アジョラ様と瓜二つの顔。
カーカラシカという不自然な苗字。
そして――異常な適性検査の数値。
書類上は修正されていたが、元の数値を見た時の衝撃は忘れられない。人間の域を超えていた。
「まさか……」
ルールーの推測は当たっていた。メルベルが実はアジョラの息子だったという秘密は、上層部では公然の秘密だ。そして今度は――
「詳細は言えません」
ナブが釘を刺す。
「ただ、彼女を貴女の保護下に置いてください。目立たず、しかし安全に過ごせるように」
「秘密は絶対に守ってください」
リーナが続ける。
「我々が良いと言うまで、誰にも漏らさないこと。もし秘密が漏れたら……」
ナブの声が冷たくなる。
「地方都市の監督巫女への推薦も、新しいガードの話も、全てなかったことになります」
脅しだった。だが同時に、餌でもあった。
ルールーは即座に決断した。
「承知いたしました」
「生徒にも協力者を作ります」
リーナが告げる。
「マヤという少女です。彼女の家には既に援助金を渡してあります。貴女から事情を説明してください」
「教官と生徒、二つの視点から不審者を炙り出すのです」
ナブが締めくくる。
「些細なことでも、必ず報告してください」
二人が去った後、ルールーは早速マヤの資料を取り出した。
マヤ・西部山村出身。苗字はない。便宜上、出身地の「ウェストマウンテン」が登録されている。
法力と聖火の適性は、まずまず。富裕層の子女と同等か、やや上。
筆記試験は零点。文字が読めない。
典型的な貧困層の才能ある子だ。
ルールーは内線で呼び出しをかけた。
「マヤ・ウェストマウンテンを教官室へ」
十分後、おずおずとマヤが入ってきた。
「お、お呼びでしょうか……」
怯えている。教官に呼ばれるのは、大抵悪い知らせだからだ。
「座りなさい」
ルールーは優しく微笑んだ。マヤが緊張しながら椅子に座る。
「マヤ、貴女に特別な任務があります」
「任務……ですか?」
「ニイナ・カーカラシカという生徒を知っていますね?」
マヤの顔が少し明るくなった。
「はい、以前少し話しました。東部から来た子です」
「実は彼女は……」
ルールーは声を潜めた。
「かなり重要な人物の娘なのです。事情があって身分を隠していますが」
マヤの目が見開かれる。だが、驚きの中に理解の色もあった。
「貴女には、彼女の友人として側にいてもらいたい。不審な人物が近づいたら、即座に私に報告すること」
「……はい」
マヤの声は震えていた。
実は昨日、荷物を取りに実家へ戻った時、すでに話は通されていた。
文字も読めない両親が、神殿の使者から金を受け取っていた。そして娘に向かって言ったのだ。
『お前には大事な仕事がある。失敗したら承知しない。死ぬまで鞭で打つぞ』
具体的な内容は知らされていなかったが、重要な任務だということは分かっていた。
「すでに、ご存知のようですね」
ルールーが察して言う。
「はい……家で、脅されました」
マヤは正直に答えた。
「これに成功すれば」
ルールーの声が甘くなる。
「貴女は彼女の側近として認められます。大人になった時、忠実な友人として重用される。今まで貴女を見下してきた者たちを、見返すことができるのです」
マヤの瞳に、希望の光が宿った。いや、それは野心の炎だった。
今まで自分を見下してきた者たちへの、復讐の機会。
貧乏人と蔑まれ、家を追い出された屈辱を晴らすチャンス。
ルールーの目にも、同じ炎が燃えていた。
才能がありながら、ガードとの相性で現場を離れざるを得なかった悔しさ。
自分より劣る者が出世していくのを、歯噛みしながら見てきた日々。
二人は見つめ合った。
そして具体的な指示を与え始める。
「まず、自然に彼女に近づくこと。同じ下位クラスですから、不自然ではありません」
「はい」
「彼女の行動を観察し、誰と話したか、どこへ行ったか、全て記憶すること」
「分かりました」
「そして何より、彼女を守ること。危険を感じたら、すぐに私に知らせなさい」
マヤは深く頷いた。
自分のような貧乏人が、重要人物の側近になれるかもしれない。
家族を、村を、見返すことができるかもしれない。
その希望が、マヤを動かした。
「必ず、やり遂げます」
マヤの声には確固たる決意が込められていた。
「期待していますよ」
ルールーは満足げに微笑んだ。
絶対に秘密を守るという約束の下、二人は一蓮托生の仲間となった。どちらかが失敗すれば、両方が破滅する。だからこそ、必死にならざるを得ない。
こうして、ニイナを中心とした監視網が完成した。
教官の立場からルールーが。
生徒の立場からマヤが。
そして上層部からは、ナブ、リーナ、アザリア、アジョラが。
蜘蛛の巣のような監視網の中心で、ニイナは何も知らずに眠っている。
暗闇の中、楽譜を抱いて。
巨人の腕の夢に、深く沈みながら。
翌朝、学校生活が始まる。
下位クラスの教室で、マヤはニイナを見つけた。
窓際の席に座り、ぼんやりと外を見ている。
「おはよう、ニイナさん」
マヤが声をかける。自然に、しかし計算して。
「……おはよう」
ニイナが振り向く。その瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
「隣、座ってもいい?」
「……好きにして」
マヤは隣に座った。そして、観察を始める。
ニイナの一挙一動を。
誰が近づいてくるかを。
何を話すかを。
全ては、自分の未来のために。
そして、知らず知らずのうちに、ニイナを守るために。
授業が始まった。
文字の読み書きから始まる、基礎的な内容。
周りの生徒たちは必死にノートを取っているが、ニイナは上の空だった。
マヤは気づいた。
ニイナは、本当は全て理解している。
ただ、そうでないふりをしているだけだ。
なぜ?
その疑問を胸に秘めながら、マヤは自分の役割を果たし続ける。
蜘蛛の巣は、静かに、しかし確実に、ニイナを包み込んでいった。




